〔『正法眼蔵』本文〕
しかあれば、草木叢林ソウリンの無常なる、すなはち仏性なり。
人物ニンモツ身心の無常なる、これ仏性なり。
国土山河の無常なる、これ仏性なるによりてなり。
阿耨多羅三藐三菩提アノクタラサンミャクサンボダイこれ仏性なるがゆゑに無常なり。
大般涅槃ダイハツネハンこれ無常なるがゆゑに仏性なり。
もろもろの二乗の小見および経論師の三蔵等は、この六祖の道を驚疑怖畏キョウギイフすべし。
もし驚疑せんことは、魔外の類なり。
〔抄私訳〕
・「阿耨多羅三藐三菩提これ仏性なるがゆゑに無常なり、大般涅槃これ無常なるがゆゑに仏性なり」と言う。これは皆文の通りに理解すべきである。この道理は、「二乗の小見」や「経論師等」が「驚疑」するであろうことは言うまでもないことである。どう考えても、無常〈いつも初めてである〉を仏性と説くことは、教家(禅門以外の宗派)ではまったく有りえないことである。祖門の直指(直接、端的にそのものを示すこと)でなければ、説くことが難しい教義である。
〔『正法眼蔵』私訳〕
常とは、未転(去来に処して去来しない不変のさま)である。(常者未転ジョウシャミテンなり。)
未転とは、たとえ判断する分別心となっても、たとえ判断される一切の諸法となっても、必ずしも去来の跡かたに関わらないから、常である。(未転といふは、たとひ能断と変ずとも、たとひ所断と化すれども、かならずしも去来の蹤跡ショウセキにかかはれず、ゆゑに常なり。)
そうであるから、草や木や叢林(木が群がって生えている林)が無常〈いつも初めて〉であることが仏性である。(しかあれば、草木叢林ソウリンの無常なる、すなはち仏性なり。)
人や物や身心が無常〈いつも初めて〉であることが仏性である。(人物ニンモツ身心の無常なる、これ仏性なり。)
国土山河が無常〈いつも初めて〉である、これは仏性であるからである。(国土山河の無常なる、これ仏性なるによりてなり。)
無上正等正覚(この上ない正しい覚り)、これは仏性であるから無常〈いつも初めて〉である、(阿耨多羅三藐三菩提アノクタラサンミャクサンボダイこれ仏性なるがゆゑに無常なり。)
仏の寂静のさとり、これは無常〈いつも初めて〉であるから仏性なのである。(大般涅槃ダイハツネハンこれ無常なるがゆゑに仏性なり。)
諸々のニ乗の見解の浅い者や経典・論典の学者などは、「無常〈いつも初めてである〉は仏性であり、有常は善悪など一切の諸法を分別する心である」という六祖の言葉を聞いて、驚き疑い怖れるであろう。(もろもろの二乗の小見および経論師の三蔵等は、この六祖の道を驚疑怖畏キョウギイフすべし。)
もし驚き疑うような者は、天魔外道のたぐいである。(もし驚疑せんことは、魔外の類なり。)
合掌
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