〔『正法眼蔵』本文〕
常聖これ無常なり、常凡これ無常なり。
常凡聖ならんは仏性なるべからず。
小量の愚見なるべし、測度シキタクの管見なるべし。
仏者小量身也、性者小量作也。
このゆゑに六祖道取す、「無常者仏性也」《無常は仏性なり》。
〔抄私訳〕
・「常聖これ無常なり、常凡これ無常なり(常に聖人は聖人でありながら無常であり、常に凡夫は凡夫でありながら無常である)」と言う。仏性の方からは、「常聖」(常に聖人)も「常凡」(常に凡夫)も、すべて無常である。
「常聖」は煩悩の惑いを断ち切って涅槃の真理をさとる方で、これは取るべきであるが、「常凡」は愚鈍な凡夫であるから、捨てるべきなどと心得るのは、ここの仏性の意味に背くのである。だから、「常に凡、常に聖ならんは仏性なるべからず」と斥シリゾけられるのである。
これは、日頃我々が考えている善悪の「常聖」「常凡」のように心得れば、仏性と言うことはできないと斥けられるのである。本当に「小量の愚見なるべし、測度シキタクの管見《竹の筒なり》なるべし」と斥けられるのは、いかにもその理由がある。
「仏者小量身也、性者小量作也」(仏も器量の小さな身となり、性も器量の小さなものとなろう)と斥けられるのは、「常聖」「常凡」は我々のような見解を説く時の仏性の様子を、このように分けて皆斥けられるのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
常に聖人はいつも聖人でありながら無常であり、常に凡夫はいつも凡夫でありながら無常である。(常聖これ無常なり、常凡これ無常なり。)
或いは常に凡夫、或いは常に聖人であるなら、それは仏性ではない。(常凡聖ならんは仏性なるべからず。)
それは、狭量な愚かな見方であり、狭い視野から推測した見方である。(小量の愚見なるべし、測度シキタクの管見なるべし。)
そういう見方では、仏も器量の小さな身となり、性も器量の小さなものとなるのである。(仏者小量身也、性者小量作也。)
だから六祖は言う、「無常は仏性である」。(このゆゑに六祖道取す、「無常者仏性也」《無常は仏性なり》。)
合掌
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