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正3-6-1②『第三仏性』第六段その1②〔今、自身を現わすことによって済度すべき者には、自身を現わしてその者の為に法を説く〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

今以現自身得度者、即現自身而為説法《今、自身を現ずるを以って得度すべき者には、即ち自身を現じて而も為に法を説く》なり。これ仏性なり。


さらに或現長法身、或現短法身なるべし。



〔抄私訳〕

・また、「今、自身を現ずるを以って得度すべき者には、即ち自身を現じて而も為に法を説くなり。これ仏性なり」(今、自身を現わすことによって済度すべき者には、自身を現わしてその者の為に法を説く)と言う。観音が三十三身などに身を変え給うのは、どうみても変わる身と化えられる身が、それぞれ別になるが、これはそうではない。


ただ、「今、自身を現ずるを以って得度すべき者には、即ち自身を現じて而も為に法を説くなり」であり、これはつまり「無常のみづから無常を説著、行著、証著」するのと同じ意味である。


・また「さらに或現長法身、或現短法身なるべし」(さらに、或る時は長法身を現わし、或る時は短法身を現わす)と言う。実に仏性の上で説く時の「長法身」「短法身」であり、決して長短の意味に関わるものではない。仏性を或る時は「長法身」と説き、或る時は「短法身」と説くので、違いはないのである。


〔聞書私訳〕

/「今自身を現わして得度すべき者には、即ち自身を現わして為に法を説くのである」とは、有に対さない無が説き・行じ・証するのを、「自身を現わして為に法を説くのである」と言うのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

六祖慧能禅師が門人の行昌に示して、「無常は仏性である、有常は善悪など一切のものを分別する心である」と言う。(六祖示門人行昌ギョウショウ云、「無常者即仏性也、有常者即善悪一切諸法分別心也」。《六祖、門人行昌に示して云く、「無常は即ち仏性なり、有常は即ち善悪一切諸法分別心なり》)


ここで六祖が言う無常は、外道や二乗等が推し測るところではない。(いはゆる六祖道の無常は、外道二乗等の測度シキタクにあらず。)


二乗・外道が始終、それは無常だと言っても、かれらは無常を窮め尽くすことはできない。(二乗外道の鼻祖鼻末、それ無常なりといふとも、かれら窮尽すべからざるなり。)


だから、無常が自ら無常を説き・行じ・証するのは、みな無常なのである。(しかあれば、無常のみづから無常を説著セッヂャク、行著、証著せんは、みな無常なるべし。)


今、自身を現わすことによって済度すべき者には、自身を現わしてその者の為に法を説くのである。これが仏性である。(今以現自身得度者、即現自身而為説法なり《今、自身を現ずるを以って得度すべき者には、即ち自身を現じて而も為に法を説く》なり。これ仏性なり。)


さらに、或る時は仏性である長法身(仏の自性である真如そのもの)を現わし、或る時は仏性である短法身を現わす。(さらに或現長法身、或現短法身なるべし。)


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