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正3-6-1⑦『第三仏性』第六段その1⑦〔無常は仏性である〕

 〔聞書私訳〕

 /「涅槃経は、吾れが昔、尼の無尽蔵が一編を読誦するのを聞いて、すぐに尼の為に講説し、一字一句も経文に合わないことは無かった。吾れは汝のために決して別のことを説いたことは無い」と言われ、仏の経では「仏性は常である」と説いているのを、六祖は「無常は即ち仏性である」と言われるのである。

具体的に言うと、義が通じて違わないことはともかく、「一字も経文に合わないことはない」と、どうして言うことができるのか、いかにも不審である。ただ「吾れが説く無常は、正しくこれが仏が説く真常の言葉である」とあるのは、真常とあるのが、無常だ。だから無常は仏性である。


「吾れが常と説くのは、正しくこれが仏が説く真無常の意味である」とある。常は、有常の方の常でもなく、無常の仏性である。仏説もまた、真無常といって真の字を加えたときに仏性ということである。ここでは仏性のみを明らかにして、その上に「有常は即ち善悪の一切諸法の分別心である」ことについては説かない。取り上げて問題にしない以上は、言うまでもないことなのである。


このようであるから、「一字も経文に合わないことはない」と言われるのである。ただ、常と無常の文字が入れ替わることを説かれるのである。


/実に、これらの常・無常の道理を思うときに、仏の経を見ても邪と正があり、祖師の言葉を見ても、知る人と知らない人がいないわけはないのである。祖師の言葉を伝えて知る人はまれであり、分からないまま知らない人は多いであろう。知らない人は疑うであろうが、知る人は理解するであろう。この道理をよく学んで、決して閑人カンジン(ひまじん)の教えに従ってはならない。


/この禅門では、「不依言語、不立文字」(言語に依らず、文字を立てず)と言う。そうであるからといって、言葉もあってはならず、経の教えもないと言うのではない。西天(インド)より経の教えが震旦シンタン(シナ)に渡ったのは、梵字ボンジ(サンスクリット語)を漢字に翻訳したから渡ったのであり、我々の翻訳の経をそのまま依経(教えの依りどころとなる経)とすることはできないから、必ずしも何の経に依るとは言わないのである。


仏が迦葉カショウに法を伝えられた時、どの経の教えを付属すると言われず、ただ釈尊が「吾れに正法眼蔵有り摩訶迦葉に付属す」と言われた時、もろもろの教えをまとめて正伝したと言うべきであろうか。或いはまた、「以心伝心」というのを、心を伝えるのだと理解する人もいるが、心とはまた何を指すのか。つまらない凡夫の思慮分別の心を伝えるのであれば、何のかいもないであろう。


ただ一仏乗(仏と成ることができる唯一の教え)を伝えると理解すべきである。「一仏乗に導くため相手の機根に合わせて仮に分けて三乗(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)を説く」(於一仏乗分別説三)といって、諸乗が一仏乗にみな帰一することが仏の本意であるので、諸経は正法眼蔵(仏法の神髄)に摂取されるから、言語は用いないといっても、文字を捨てるようなことではないのである。


小乗でも「言語不及」(言語は真理に届かない)と言い、大乗では「言語道断」(究極の真理は言語で言い表せない)と言う。「言語不及」と言っても、言語で聞くのであるから、決して世間で用いる言語と理解してはならない。すべて常・無常を理解することは、とりわけ六祖と行昌の問答にあるのである。


/「経に依って意味を判別するのは、三世仏の怨エンであり、経の一字を離れれば魔が説くのと同じようなものである」(依経解義三世仏怨、離経一字如同魔説)と言う。経の教えの言葉に依って意味を判別するのは、大いに「三世仏の怨」となるのである。経の言葉も捨てず、経の言葉に依って意味を判別するまでもないのは、今の「悉有仏性」(すべてが仏性である)の義であろう。


/「経に依って意味を判別する」(依経解義)とは「一切衆生、悉有は仏性であり、如来は常住であって、変易が有ることは無い」の文について、世間で理解するのは、「一切衆生に仏性は具っていないことはなく、仮に十界互具(十界の一つ一つが、互いに他の九界を備えている) 」と説くのもこの意味合いである。


「衆生の側は業力によって果報を感じる身であるから、どのようにでもなるけれども、仏性は常住で変易することは無い」と思い、「仏性の義を知らんと欲はば当に時節因縁を観ずべし、時節若し至らば仏性現前せん」などという経文も、「仏性を知ろうと思うならば」と願わせた後で、その様子を説いて、「当に時節因縁を観ずべし」といって、時節をじっと観じていなさい、時節が至りさえすれば仏性は現前する」と、今後を待つように理解している。

多分このような理解は「三世仏の怨」などと言うのであろうか、知り難い。


/「不離経一字」(経の一字も離れない)で仏法を理解するありようは、「一切衆生、悉有は仏性なり」の義も、この『仏性』の巻で説くように、悉有を衆生とも仏性とも理解し、「知ろうとおもう」をそのまま仏性と説くのである。若至も若不至の時節も仏性と理解するときに、経の一字も離れず、一仏乗の意味も決着するものである。


言葉に妨げられるときは、仏の一代の教えの言葉を判別して、或いは三蔵教に当て、或いは通教と定め、或いは別教と立て、或いは円教と言う。円教以前の言葉は無用のものとして捨てるように思われる。これを「経の一字も離れず」と言えようか。これでは、「魔が説くのと同じようである」という意味も逃れることはできない。


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