スキップしてメイン コンテンツに移動

正3-6-1⑤『第三仏性』第六段その1⑤〔一切諸法が若し無常であれば、即ちあらゆるものはみな自性があり、まさに生死を受けるに違いない〕

 〔聞書私訳〕

/上に載せた六祖の言葉に「汝は仏性を知っているかどうか。若常(若し常)ならば、更に何の善悪の諸法を説くのか」とあるのは、仏性が無常でなく常であるなら、善悪の諸法はあるはずがないということである。


仏性でないものはあるはずがないから、以前に第一段で、既に衆生を仏性と言い、第三段で、山河大地を仏性と言い、衆生の内も外も仏性の悉有であると言うのは、論じるまでもない事である。「若常」という二字は、行昌の考えに寄せて「若常ならば」と言われるのである。


/六祖は言う、「ないし窮劫クウゴウにも菩提心を発こす者は一人もあるまい」という「窮劫」とは、劫を窮めて久しい喩えである。


/また、「菩提心を発こす者は一人もいないだろう」と説かれるわけは、仏性は無常であると言うから菩提心も発こるのであり、常であり不変であるなら菩提心を発こすとは言い難いという意である。


発菩提心は仏性であるから、普通は常と言っても、無常と言っても、仏法ではどちらも世間で用いる言葉のように理解してはならないのである。だから、「仏性常住」と経では説くが、世間で言う常とは異なり、六祖が言う「無常は即ち仏性である」の意味に通じ、常といっても、世間で用いる常は経で説く真常とは異なるのである。


六祖は、「吾れが説く無常は正しくこれが仏が説く真常の言葉である」と言われる。また、「吾れが説く常は、正しく仏が説く真無常の意である」と言う。無常も常も仏性であると、六祖は説かれておられるのである。


/ここでは、まったく諸法(森羅万象)の方は説かれず、ただ仏性ばかりである。吾れが説く無常も仏性であり、仏が説く真常の言葉も仏性であり、吾れが説く常《無常なり》も仏性であり、仏が説く真無常も仏性である。真という字を加えるから仏性である。全く「有常は即ち一切諸法分別」の事を言わず、ここは、行昌の言う有常と無常を超越してしまう時に、有常と無常の言葉を一つにして両方に理解しようとしてはならない。《有常の方を知ることはできないのである》


/六祖は言う、「一切諸法が若し無常であれば、即ちあらゆるものはみな自性があり、まさに生死を受けるに違いない。しかも、真常の性にあまねく行き渡らない所があるから、吾れは常と説く。正しくこれが仏が説く真無常の意味である。」と。


「吾れが説く常」と言って、ここに「無」の字がないことにたぶらかされて学者(仏道を学び修行する者)が迷うのである。「吾れが説く」と言われるのは、「無常」ということである。ここでは、「有常」の方を全く説かないのである。この「若し無常であれば」とは、行昌の考えの無常を言うのである。それで、「あらゆるものはみな自性があり、生死を受けるに違いない」と言うのである。


この「自性」とは仏性ではなく、ただ「あらゆるもの」のそれ自身を「自性」と言う。だから「みな生死を受けるに違いない」のである。「真常」に「あまねからざる所」が出て来るに違いないと斥けられるのである。だから、「吾れが説く常は正しくこれが仏が説く真無常の意味である」と言う。「無」の字はないが、「吾れが説く」というから「真無常」なのである。


                       合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。合掌                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

正3-14-1③『第三仏性』第十四段その1③〔斬れた「両頭がともに動く」という両頭は、まだ斬れていない前を一頭とするのか、仏性を一頭とするのか〕

  〔『正法眼蔵』本文〕 「両頭俱動《両頭倶に動く》」といふ両頭は、 未斬よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか。 両頭の語、たとひ尚書の会不会 エフエ にかかはるべからず、 語話をすつることなかれ。 きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか。 その動といふに俱動といふ、定動智抜 ジョウドウチバツ ともに動なるべきなり。 〔抄私訳〕 ・/「『両頭俱動』といふ両頭は、未斬よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか」とある。 「仏向上」とは、「仏性を一頭とせるか」というほどの意味合いである。「仏向上」と言うからといって、仏の上にさらにものがあるようなことを言うのであると理解してはならない。ただ、つまるところ、仏を指して「仏向上」と言うのである。 ・「尚書の会不会にかかはるべからず、語話をすつることなかれ」とある。 「両頭」の語を「尚書」がたとえ理解していようと、あるいは理解していまいと、この「語話」を、仏祖の道理には無用の言葉だとして捨てず、理解すべきであるというのである。 ・/「その動といふに俱動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり」とある。 一般に、経家 (禅宗以外の宗派) では「定動智抜」と言って、「定を以て動かし、智を以て抜く」 と言う。これは能所 (主客) が別で、そのうえ「動」と「抜」が相対している。 ここでは、もし「動」であれば全体が「動」であり、「抜」であれば全体が「抜」であるから、「定動智抜ともに動なるべきなり」と言われるのである。 これもよく考えると、「定」は仏性であり、「動」も同じく仏性であり、「智」も仏性であり、「抜」も仏性であるから、「仏性を以て動かし、仏性を以て抜く」とも理解できよう。 つまるところ、この段の落ち着くところは、「仏性斬れて両段と為る、未審、蚯蚓阿那箇頭にか在る」 (仏性が斬られて二つとなりました、さて、ミミズはどちらにありますか) とあることで、はっきりと理解されるのである。                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村 にほんブログ村

正3-7-1⑤『第三仏性』第七段その1⑤〔眼が見る様子から学ぶ;眼の働きの真相〕〔『正法眼蔵』評釈〕

「人間の分別心を一切混ぜずに、眼が見、目が覩 ミ る様子から学ぶべきである。 (眼見目覩 ガンケンモク ト にならふべし。) 」とありますが、人間が生活していく上で、非常に大事なところなので、言語化をトライしてみたいと思います。皆さんに響くでしょうか? 私たちは、見ようと思わなくても、いつでも物が見えている中にいます。物が見えている時に、眼はどこにも出てきません。物が見えている様子だけが展開していきます。不思議ですが、自分が見ているという感じもないのです。 実験です。身の回りをぐるっとこう見てもらうと分かるのですが、こんな風になるのですね。皆さんもやってみてください。今見えている所から首をこう動かしていくと、前に見えている様子が跡かたもなく消え、新しい様子に変わります。見える物が次々と変わっていきますが、いつでも今の様子しかありません。ほかの様子とダブったりすることは、決してありません。だから、いつもはっきりと鮮やかに見えるのです。 ふっと、「リンゴ!」が見えます。自分もなく、眼もなく、ただリンゴの様子が見えます。それがその時の自分の様子です。別を向くと、「手袋!」が見えます。自分もなく、眼もなく、ただ手袋の様子が見えます。それがその時の自分の様子です。高く見上げると「空!」が見えます。自分もなく、眼もなく、ただ空の様子が見えます。それがその時の自分の様子です。 物が見える時、眼は出てきません。物の様子が現れ消え、次々に変わっていくだけです。消えた跡かたはまったく残りません、さっきの物と今の物がダブルになることはありません。眼は見るものと見られるものの区別なく、ある!と感じるだけです。それがその時の自分の様子です。眼は自分が見るとも思わず、人間の分別心がまったく混じらずに、主人公不在のまま感じるだけで、跡かたは一切残しません。眼のはたらきは、あらゆるものから解放されており、自由自在です。 しかし、見たものを後でどうこう思うのは、人間の記憶と分別心です。そこから良し悪しが生じ、問題が起こるのです。眼には、あらゆるものは良くも悪くもなく、ただその通りあるだけです、眼は解脱しています。 これが、向かうと必ずその通りある実物を人間の分別心なしで見ること、つまり見仏性です。そして向かうと必ずある実物を、人間の分別心を差し挟まずあるがままその通り見ると、固定的な実体であると思

正4『正法眼蔵聞書抄身心学道第四』〔身心学道:身心の在り様がそのまま学仏道である〕

  正法眼蔵 第四身心学道 〈正法眼蔵 ショウボウゲンゾウ 涅槃妙心 ネハンミョウシン: 釈尊が自覚された涅槃妙心である一切のものの正しい在り様を、 道元禅師も自覚され、それを言語化され収められた蔵。 第四巻身心学道 シンジンガクドウ : 身心の在り様がそのまま学仏道である〉 正4-1-1『第四身心学道』第一段その1 〔仏道は、仏道以外によって仏道に擬 ナゾ えても決して当たるものではない〕 〔『正法眼蔵』原文〕     仏道は、不道 フドウ を擬 ギ するに不得 フトク なり、 不学を擬するに転遠 テンオン なり。 〔抄私訳〕   仏道は、仏道以外で学ぼうとしても出来ず、 仏道を学ばなければますます遠ざかるのである。 近頃の禅僧の中には、「宗門では言語を用いないから聖典に随わず、学問は教者 キョウシャ(仏典を解釈することによって仏法の道理を説く者 ) がなすところであるからただ坐禅して悟りを待つのだ」と言う族 ヤカラ が多い。 しかしこれは、今言うところのわが宗門の儀とは全く相違する。邪見である。そうではなく、常に師を尋ね道を訪ねて 功夫参学 (純一に修行に精進) すべきである。 *注:《 》内は聞書抄編者の補足。[ ]内は訳者の補足。〈 〉内は独自注釈。( )内は辞書的注釈。                                  合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村