スキップしてメイン コンテンツに移動

正3-6-1①『第三仏性』第六段その1①〔無常は仏性である、有常は善悪など一切のものを分別する心である〕

〔『正法眼蔵』本文〕

六祖示門人行昌ギョウショウ云、「無常者即仏性也、有常者即善悪一切諸法分別心也」。《六祖、門人行昌に示して云く、「無常は即ち仏性なり、有常は即ち善悪一切諸法分別心なり》

いはゆる六祖道の無常は、外道二乗等の測度シキタクにあらず。

二乗外道の鼻祖鼻末、それ無常なりといふとも、かれら窮尽すべからざるなり。

しかあれば、無常のみづから無常を説著セッヂャク、行著、証著せんは、みな無常なるべし。


〔抄私訳〕

・この言葉を聞いて、行昌は非常に驚き疑う。「仏性」は常住の法である。経にも「善悪など一切のものを分別する心は、無常の法である」と説かれている。ところが、今の六祖の言葉は、経文と非常に相違するから、疑うのである。これは、行昌が世間と同じように無常・常住などを理解するからこのように疑うのであるが、六祖は仏が説く真常の方から言われる時に、常と真常とは実に水と火のように相い反するものとなるのである。驚き疑うのはもっともなことでそれだけのわけがあるのである。


しかし、行昌は事の次第を詳しく説示された時、すぐさま悟りを得たから、六祖は行昌に、「今からは志徹と名乗りなさい」と言われたのである。ここのお言葉は、みな真無常を説かれるのである。六祖が言う「無常」は、外道(仏道以外の道)や二乗(声聞・縁覚)などの推し測ることが出来ないものであることは言うまでもない。


・「二乗外道の鼻祖鼻末、それ無常なりといふとも、かれら窮尽すべからざるなり」(二乗・外道が始終、無常と言っても、かれらは窮め尽くすことはできない)と言う。実に、仏性の方からすれば漏れたものは何一つないのであるが、外道や二乗等は、この理を知ることができないから、このように釈されるのである。


・また、「無常のみづから無常を説著、行著、証著せんは、みな無常なるべし」無常がみずから無常を説き・行じ・証するのは、みな無常であると言う。今の六祖が「無常は即ち仏性なり、有常は即ち一切諸法善悪分別心なり」と言われるのは、つまり「無常が自ら無常を説き・行じ・証する」すがたである。六祖も「無常」の道理から遁れることが出来ないから、このように説かれるのである。


〔聞書私訳〕

/「有仏性」「無仏性」と言って、この有無は、世間で用いられる有無でないことはすでに触れた。そうであるからには、この「無常」の無も、「有常」の有も、共に仏法と言うべきかと思われるが、「無常」を「仏性」と立て、「有常」を「分別心」と分けるのがこの段で言おうとすることである。「無常」と説いても、違いがある。二乗も外道もそれぞれ無常の言葉はあるが、それぞれの教えに随ってまた違いがある《二乗は無常を執するのであり、外道は常と考え、また無常とも考える》


禅門で見性成仏と説くが、この性も世間で言う性ではない。世間では、まだ現われていないところを性と言い、現われているすがたを相と説く理解に随って、或いは仏性と説き、或いは真如と説き、或いは実相と説く。ここで言う見性成仏の性は、この「仏性」にあたるのである。


/「二乗外道の鼻祖鼻末、それ無常なりといふとも」。この祖は、祖師の祖ではなく、末に対する初と理解すべきである。


/「無常の自ら無常を説著、行著、証著せむは、皆無常なるべし」とは、これは有に対する無ではないことを、「みづから説著、行著、証著するなり」と言われるのである。ただ「無常」とのみ言うだけでは、邪正にわたって受け取られるであろうところを、「みづから」と言うとき、「無常」の意味が過不足なく心得られるのである。真無常という言葉も正しく心得らるのである。


〔『正法眼蔵』私訳〕

六祖慧能禅師が門人の行昌に示して、「無常は仏性である、有常は善悪など一切のものを分別する心である」と言う。六祖、門人行昌に示して云く、「無常は即ち仏性なり、有常は即ち善悪一切諸法分別心なり。)


ここで六祖が言う無常は、外道や二乗等が推し測るところではない。(いはゆる六祖道の無常は、外道二乗等の測度シキタクにあらず。)


二乗・外道が始終、それは無常だと言っても、かれらは無常を窮め尽くすことはできない。(二乗外道の鼻祖鼻末、それ無常なりといふとも、かれら窮尽すべからざるなり。)


だから、無常が自ら無常を説き・行じ・証するのは、はみな無常なのである。(しかあれば、無常のみづから無常を説著セッヂャク、行著、証著せんは、みな無常なるべし。)


                        合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。合掌                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

坐禅は身心の今の様子のままにただ親しくいるだけである『第十一坐禅儀』11-1-1a

正法眼蔵第十一 坐禅儀 ザゼンギ 〔『正法眼蔵』原文〕   参禅は坐禅なり 。  坐禅は静処 ジョウショ よろし。坐蓐 ザニク あつくしくべし。 風烟 フウエン をいらしむる事なかれ、雨露 ウロ をもらしむることなかれ、 容身 ヨウシン の地を護持すべし。 かつて金剛 コンゴウ のうへに坐し、盤石 バンジャク のうへに坐する蹤跡 ショウセキ あり、 かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。 坐処あきらかなるべし、昼夜くらからざれ。 冬暖夏涼 トウダンカリョウ をその術とせり。  諸縁を放捨し、万事 バンジ を休息すべし。 善也不思量 ゼンヤフシリョウ なり、悪也不思量なり。 心意識にあらず、念想観にあらず。 作仏 サブツ を図 ズ する事なかれ 、坐臥 ザガ を脱落すべし。  飲食 オンジキ を節量すべし、光陰を護惜 ゴシャク すべし。 頭燃 ズネン をはらふがごとく坐禅をこのむべし。 黄梅山 オウバイサン の五祖、ことなるいとなみなし、唯務 ユイム 坐禅のみなり。  坐禅のとき、袈裟 ケサ をかくべし、蒲団 フトン をしくべし。 蒲団は全跏 ゼンカ にしくにはあらず、跏趺 カフ のなかばよりはうしろにしくなり。 しかあれば、累足 ルイソク のしたは坐蓐 ザニク にあたれり、 脊骨 セキコツ のしたは蒲団にてあるなり。 これ仏々祖々の坐禅のとき坐する法なり 。 〔『正法眼蔵』私訳〕 正しい坐禅の仕方 (坐禅儀)   禅 (自己の真相:今の様子) に参ずる (親密にいる) のは、 公案を拈ることではなく 坐禅することである 。 (参禅は坐禅なり。)  坐禅は静かな処が適切である。 (坐禅は静処 ジョウショ よろし。) 座布団を厚く敷きなさい。 (坐蓐 ザニク あつくしくべし。) 風や霞が入らないようにし、雨や露が漏れてこないようにして、 身を容 イ れる場所を清潔に保ちなさい。 (風烟をいらしむる事なかれ、雨露をもらしむることなかれ、 容身の地を護持すべし。) かつて金剛座 (金剛石でできた坐処) の上に坐したり、 或いは大きい岩の上に坐した事跡があるが、 彼らはみな草を厚く敷いて坐ったのである。 (かつて金剛 コンゴウ のうへに坐し、盤石 バンジャク のうへに坐する蹤跡 ショウセキ あり、 かれらみな草をあつくしき...

あなたは坐禅をして何を図っているのか『第十二坐禅箴』12-2-1a

〔『正法眼蔵』原文〕    江西大寂 コウゼイダイジャク 禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、 密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。  南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、 「大徳、坐禅図箇什麼 ズコシモ 」。  この問、しづかに功夫参学すべし。 そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図 ヅ のあるか、坐禅より格外に図すべき道 ドウ のいまだしきか、すべて図すべからざるか。 当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著 モンヂャク するか。 審細に功夫すべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕 江西の大寂馬祖道一禅師が、縁あって南嶽大慧懐譲禅師に参じて学んだとき、仏心印 (仏の悟りの内容 ) を親しく厳しく正しく受けて (仏法の在り様、坐禅の在り様がツーツーになって) 以来、常に坐禅した。 (江西大寂禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかた、つねに坐禅す。) 《この密は、隠密の密ではなく、親しく厳しく正しいという意味合いである。》 南嶽がある時馬祖の所に行って尋ねた、 「あなたは坐禅をして何を図っているのか」。 (南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、「大徳、坐禅図箇什麼。」) この問いは、静かに工夫し深く学ばなければいけない。 (この問、しづかに功夫参究すべし。) と言うのは、坐禅よりもっと上にあるべき図 (様子) があるのか、坐禅より外に図るべき道 (在り様) がまだその時期でないのか、全く図ることがないのか。 (そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図のあるか、 坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、すべて図すべからざるか。) 当に坐禅している時に、どんな図 (様子) が現れているのかと問うたのか、詳細に工夫すべきである。 (当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか。審細に功夫すべし。) 〔「坐禅図箇什麼」 (坐禅の図は箇の什麼なり) とは、箇の什麼 (この身心の今の様子) が坐禅の図 (様子) であるということである。〕 あなたは坐禅をして何を図っているのか『第十二坐禅箴』12-2-1b                         合掌 ンキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほん...