〔聞書私訳〕
/この第五段の趣旨ははっきりしているので、善知識の言葉を待つ必要はない。 そのわけは、「五祖曰く、汝いづれのところよりかきたれる」より「嶺南人無仏性、いかにしてか作仏せん」まで繰り返し問答があるのを、世間の言葉として聞いても一応は心得られるが、五祖のお言葉に、「嶺南人無仏性」とあるのは、大いに動揺させる。
そのわけは、六祖はすでに「作仏を求む」(仏になることを求める)と言われたが、「無仏性」の人が、どうして「作仏」という言葉を知っているのだろうか。まして自ら求めて五祖に参ずるはずがない。《これが第一》
「嶺南人」が、そのようにどうして「無仏性」のものばかりが集まることがあろうか。《これが第二》
このことは心得られないが、こうしたことについては、これまでの段に心得るべき所が多くある。
始めに第一段で、「悉有」が「衆生」であると言い、「仏性」であると聞いたことによって、この「有」の字は、世間の有のようではない。
第二段の、「欲知」(知ろうと欲えば) というのも「当知(当に知っている)」と心得、「若至」と言い「不至」と言う、「仏性の現前」と心得る〈時節若至すれば、仏性不至なり。しかあればすなはち、時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり〉、「超越因縁」、「脱体仏性」などと聞く。
第三段で、「仏性海」を、「山河大地、皆依って建立し、三昧六通は、茲コレに由ヨって発現す」と説き、海を「仏性海」と説き、「山河」と説く。「皆依は全依(全て依)なり」と言い、「建立せる正当恁麼時」と呼び出し、「山河大地なり」と言う。「驢腮馬嘴ロサイバシ」(ロバの顎や馬の口元のようにどこにでもあるもの)を指して、「仏性を見る」と言う。「六神通」とあげて、「前三々後三々」と体脱(身心脱落)する。
第四段では、/四祖は「汝何姓」と問い/五祖は「姓即有、不是常姓」(姓は即ち有り是れ常の姓にあらず)と答え/四祖はまた「是何姓」と問い、五祖は「是仏性」と答え/四祖はまた「汝無仏性」(汝は無仏性)とお答えになられる。
有無の意味は、すでにそれぞれの段で明らかである。どんな疑問が残っていようか。《これが第三》
その上、「嶺南人は仏性なしといふにあらず、嶺南人は仏性ありというふにあらず、嶺南人、無仏性なり」とある。《これが第四》
また、「いかにしてか作仏せん」 というのは、「いかなる作仏を期するといふなり」とあるから、いかなる「作仏」も「無仏性」であり残る所がないのに、今愚かな学人が世間の固執に引かれて、おざなりで正しく心得ない、あわれむべき者である。《これが第五》
また、一方で心得るべき所があり、「嶺南人皆仏性」と思われる。そのわけは、「嶺南人無仏性」と言うから、この「無」を「仏性の無」と心得るべきである。「嶺南人皆無仏性人」(嶺南人はみな無仏性人)であるから、「どうして仏になろうとするのか」と言われるのである。「仏性」の上で、それとは別に仏になると説けないからである。《これが第六》
〔『正法眼蔵』私訳〕
そうであるから、仏法で言ういろいろな無は、無仏性の無から学ぶべきである。(しかあれば、諸無の無は、無仏性の無に学すべし。)
六祖が言う「人に南北有り、仏性に南北無し」の言葉を、何度もよく深意を掬スクってみるべきである、まさに掬い取る者に深意を掬い取る力量があるべきである。(六祖の道取する「人有南北、仏性無南北」の道、ひさしく再三撈摝ロウラクすべし、まさに撈波子ロウボスに力量あるべきなり。)
六祖が言う「人に南北有り、仏性に南北無し」の言葉を、静かに取ったり放ったりしていろいろと考えてみるべきである。(六祖の道取する「人有南北、仏性無南北」の道、しづかに拈放ネンポウすべし。)
愚かな連中が思うことには、人間には体があるから南や北の違いがあるが、仏性は空虚で融通しているから南北を論じる必要がないと、六祖は言ったのであろうと推測するのは、埒ラチも無い愚か者である。(おろかなるやからおもはくは、人間には質礙セツゲすれば南北あれども、仏性は虚融コユウにして南北の論におよばずと、六祖は道取せりけるかと推度スイタクするは、無分の愚蒙グモウなるべし。)
この誤った考え方を投げ捨て、ただちに仏道修行を勤めるべきである。(この邪礙ジャゲを抛却ホウキャクして、直須ジキシュ勤学ゴンガクすべし。)
合掌
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