スキップしてメイン コンテンツに移動

正3-5-3④『第三仏性』第五段その3④〔この第五段で「嶺南人無仏性」とあるのは大いに動揺させるが、そのわけは六つ〕

〔聞書私訳〕

/この第五段の趣旨ははっきりしているので、善知識の言葉を待つ必要はない。 そのわけは、「五祖曰く、汝いづれのところよりかきたれる」より「嶺南人無仏性、いかにしてか作仏せん」まで繰り返し問答があるのを、世間の言葉として聞いても一応は心得られるが、五祖のお言葉に、「嶺南人無仏性」とあるのは、大いに動揺させる。


そのわけは、六祖はすでに「作仏を求む」(仏になることを求める)と言われたが、「無仏性」の人が、どうして「作仏」という言葉を知っているのだろうか。まして自ら求めて五祖に参ずるはずがない。《これが第一》


「嶺南人」が、そのようにどうして「無仏性」のものばかりが集まることがあろうか。《これが第二》


このことは心得られないが、こうしたことについては、これまでの段に心得るべき所が多くある。


始めに第一段で、「悉有」が「衆生」であると言い、「仏性」であると聞いたことによって、この「有」の字は、世間の有のようではない。


第二段の、「欲知」(知ろうと欲えば) というのも「当知当に知っている)」と心得、「若至」と言い「不至」と言う、「仏性の現前」と心得る〈時節若至すれば、仏性不至なり。しかあればすなはち、時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり〉、「超越因縁」、「脱体仏性」などと聞く。


第三段で、「仏性海」を、「山河大地、皆依って建立し、三昧六通は、茲コレに由って発現す」と説き、海を「仏性海」と説き、「山河」と説く。「皆依は全依(全て依)なり」と言い、「建立せる正当恁麼時」と呼び出し、「山河大地なり」と言う。「驢腮馬嘴ロサイバシ(ロバの顎や馬の口元のようにどこにでもあるもの)を指して、「仏性を見る」と言う。「六神通」とあげて、「前三々後三々」と体脱(身心脱落)する。


第四段では、/四祖は「汝何姓」と問い/五祖は「姓即有、不是常姓」(姓は即ち有り是れ常の姓にあらず)と答え/四祖はまた「是何姓」と問い、五祖は「是仏性」と答え/四祖はまた「汝無仏性」(汝は無仏性)とお答えになられる。


有無の意味は、すでにそれぞれの段で明らかである。どんな疑問が残っていようか。《これが第三》


その上、「嶺南人は仏性なしといふにあらず、嶺南人は仏性ありというふにあらず、嶺南人、無仏性なり」とある。《これが第四》


また、「いかにしてか作仏せん」 というのは、「いかなる作仏を期するといふなり」とあるから、いかなる「作仏」も「無仏性」であり残る所がないのに、今愚かな学人が世間の固執に引かれて、おざなりで正しく心得ない、あわれむべき者である。《これが第五》


また、一方で心得るべき所があり、「嶺南人皆仏性」と思われる。そのわけは、「嶺南人無仏性」と言うから、この「無」を「仏性の無」と心得るべきである。「嶺南人皆無仏性人」(嶺南人はみな無仏性人)であるから、「どうして仏になろうとするのか」と言われるのである。「仏性」の上で、それとは別に仏になると説けないからである。《これが第六》



〔『正法眼蔵』私訳〕

そうであるから、仏法で言ういろいろな無は、無仏性の無から学ぶべきである。(しかあれば、諸無の無は、無仏性の無に学すべし。)


六祖が言う「人に南北有り、仏性に南北無し」の言葉を、何度もよく深意を掬スクってみるべきである、まさに掬い取る者に深意を掬い取る力量があるべきである。(六祖の道取する「人有南北、仏性無南北」の道、ひさしく再三撈摝ロウラクすべし、まさに撈波子ロウボスに力量あるべきなり。)


六祖が言う「人に南北有り、仏性に南北無し」の言葉を、静かに取ったり放ったりしていろいろと考えてみるべきである。(六祖の道取する「人有南北、仏性無南北」の道、しづかに拈放ネンポウすべし。)  


愚かな連中が思うことには、人間には体があるから南や北の違いがあるが、仏性は空虚で融通しているから南北を論じる必要がないと、六祖は言ったのであろうと推測するのは、埒ラチも無い愚か者である。(おろかなるやからおもはくは、人間には質礙セツゲすれば南北あれども、仏性は虚融コユウにして南北の論におよばずと、六祖は道取せりけるかと推度スイタクするは、無分の愚蒙グモウなるべし。)


この誤った考え方を投げ捨て、ただちに仏道修行を勤めるべきである。(この邪礙ジャゲを抛却ホウキャクして、直須ジキシュ勤学ゴンガクすべし。)


                        合掌


ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。合掌                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...

正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2a

〔『正法眼蔵』原文〕  「還仮悟否 ゲンケゴヒ 《 還 カエ って悟を仮るや否や 》」。 この道をしづかに参究して、 胸襟 キョウキン にも換却すべし、 頂𩕳 チョウネイ にも換却すべし 。  近日大宋国禿子 トクス 等いはく、「悟道是本期 ゼホンゴ 《悟道是れ本期なり》 」。 かくのごとくいひていたづらに待悟す。 しかあれども、 仏祖の光明 にてらされざるがごとし。 たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰 ランダ にして蹉過 サカ するなり。 古仏の出世にも度脱せざりぬべし。 〔『正法眼蔵』私訳〕   「 むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 」。 この言葉を静かに親しく究め尽くして、 心の中のものとも取り換えなさい、 頭の中のものとも取り換えなさい 。 (「還仮悟否」。この道しづかに参究して、胸襟にも換却すべし、 頂𩕳 にも換却すべし。)   近頃、大宋国では、頭を剃って坊さんの格好をした連中が、 「仏道修行は道を悟ることが本来の目的だ」と言っている。 このように言って、無駄に悟りが来るのを待っている。 (近日大宋国禿子等いはく、悟道是れ本期なり。かくのごとくいひていたづらに待悟す。) そうであるけれども、 仏陀や祖師と同じような 自己の光明 に照らされないようなものである。 (しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。) ただ真の善知識 (人を正しく導く師) について学ぶべきであるのに、 時間を無駄に過ごして 大道(自己の光明に照らされる在り様) を踏み間違えているのである。 (たゞ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。) たとえどんな仏の出生に出会っても、解脱しないであろう 。 (古仏の出世にも度脱せざりぬべし。) むしろ逆に悟りを借りるのかどうか 『第十大悟』10-4-2b                          合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村