〔『正法眼蔵』本文〕
いはゆるの空は、色即是空の空にあらず。
色即是空といふは、色を強為ゴウイして空とせるにあらず、空をわかちて色を作家サッケせるにあらず。
空是空の空なるべし。空是空の空といふは、空裏一片石なり。
しかあればすなわち、仏性無と仏性空と仏性有と、四祖五祖、問取道取。
〔抄私訳〕
・「いはゆるの空は、色即是空の空にあらず」と言う。確かに「色即是空」(色は即ち是れ空である)の空は、凡夫二乗等が考える空であり、色も前の空と同じであるが、ここの
「色空」は、まったくこういうことではない。
・「色を強為ゴウイして空とするにあらず、空をわかちて色を作家サッケせるにあらず」(色を無理やり空とするのではなく、空を分けてしいて色を作り出すのでもない)とある。ここで説く空色は、決してそのような見解ではない。仏性を空とし、
仏性を色とするのであり、この見解を超越して、「空是空の空なるべし」という
のである。『正法眼蔵第二摩訶般若波羅蜜』で説いた空是空の道理なのである。
・「空是空の空といふは、空裏一片石なり」(空是空の空とは、空の中が一片の石でいっぱいということである)と。これも空の内に、そのような一つの石があるように思われるが、そうではない。
ただ空の無辺際のありようが、このように言われるのである。
この「石」も、仏性の「一片石」なのである。この「裏」も、表裏が相対している
裏と理解してはならない。
・「しかあればすなわち、仏性無と仏性空と仏性有と、四祖五祖、問取道取」(そうであるから、「仏性無」と「仏性空」と「仏性有」と、同じ道理であると、四祖と五祖は、
問いまた言うのである)とは、これもまた、何度も繰り返して言うようだが、この仏性空も、仏性有も、
仏性無とただ同じ道理で、一物である。四祖と五祖は、その容貌が違っているよう
だが、仏祖の大法が通じるところでは、ただ一物であり、辺際はない。
問うのも言うのも全く同じ意味合いである。問うことに言うことがあり、
言うことに問うことがあるのである。このことは前に触れた通りである。
〔聞書私訳〕
/「いはゆるの空は、色即是空の空にあらず。色即是空といふは、色を強為ゴウイして空とするにあらず、空をわかちて色を作家サッケせるにあらず。空是空の空なるべし。ここで言う空は、色即是空の空ではない。色即是空とは、色を無理やり空とするのではなく、色と空を
分けて色を作り出すのでもない。「空是空」の空である)」と言うのである。
「強為せず、作家せず」とあるのは、色を空と言い、空を色とするのではないこと
を言うのである。ただ空は空であると言うのである。般若の空を非難するのでは
ない。「作家」とは、「強為」などというように物を作り出す意味合いである。
作るというのであるから。
/「空裏一片石なり」(空の中が一片の石でいっぱいである)とは、空と色は二つに思われるが、そうではない。ただ空の中と言った時に空であり、空と色はただ一つ
と理解すべきである。また、空の中と言えば石もあるが、この石は空の上の石である
から、空ととるべきであり、空以外のものではない。
「空裏一片空」(空の中が一片の空でいっぱいである)とも言えるであろう。また、空に交わるものはない。だから、一片の石が空である
ことを、「空裏一片石」とも言うのである。
/「仏性無と仏性空と仏性有と、四祖五祖、問取道取」(仏性無と仏性空と仏性有はただ同じ道理であると四祖と五祖は、問いかつ言うのである)とは、有仏性は無仏性であるというほどのことである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
ここで言う空は、色即是空の空ではない。(いはゆるの空は、色即是空の空にあらず。)
色即是空とは、色(物質)を無理やり空とするのではなく、空を分けて強いて色を作り出すのではない。(色即是空といふは、色を強為ゴウイして空とせるにあらず、空をわかちて色を作家サッケせるにあらず。)
空は空であるという空である。空は空であるという空とは、空の中が一片の石で
いっぱいであるということである。(空是空の空なるべし。空是空の空といふは、空裏一片石なり。)
そうであるから、仏性無と仏性空と仏性有はただ同じ道理であると、四祖と五祖は
、問いかつ言うのである。(しかあればすなわち、仏性無と仏性空と仏性有と、四祖五祖、問取道取。)
合掌
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