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正3-5-2①『第三仏性』第五段その2①〔仏性は成仏よりのちに具わるのである〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

おほよそ仏性の道理、あきらむる先達すくなし。

諸阿岌摩教ショアギュウマキョウおよび教論師のしるべきにあらず。

仏祖の児孫のみ単伝するなり。 

仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。

仏性かならず成仏と同参するなり。        

この道理、よくよく参究功夫すべし。三二十年も功夫参学すべし。   


〔抄私訳〕

・また、「仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり」(仏性は成仏の前に具わっているのではなく、成仏の後に具わるのである)とある。このくだりは、大いに不審である。仏性は煩悩に束縛されている凡夫が具えている法であり、これを修行して現わす時に成仏するはずである。それなのに、仏性は成仏の前に具えている法であると言う。このお言葉は理解できない。しかし、このように皆人は理解しているから、その邪見を破ろうとするご解釈である。


仏性の道理は、前の際と後の際が切断されているということである。このように仏性の道理だけでも落とし込んで理解するなら、たとえ前と言い、後と説いても、仏性の上の前後であり、決して区別があるわけではないのである。


〔聞書私訳〕

/「仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり」と言う。禅門以外では、衆生は始めの知れない昔より仏になれる性を具えているから、善知識に随って煩悩を断じ、理を現すのを成仏と言うのである。これはすなわち、仏の性は前から具わっており、仏になるのはその後である、と説くのを斥けて、衆生の内外はすなわち「仏性」の皮肉骨髄であり、また、仏と性は内外ではなく前後ではないという道理を表わすのである。


「具足す」というすがたは、「仏性」の全体を「具足」と言い、「成仏」の全体を「具足」と言うのである。あれやこれやを具足するという具足ではない。「仏性」と「成仏」は同時であるから、「同参」 〈ともに修行する〉 と使うのである。「成仏よりさき」「成仏よりあと」とは、前三々後三々を言うのである。前後に関わる「さき」「のち」ではないのである。「成仏以来に具足する法なり」とは、「成仏」に前後がなく、始めも終りもないから、「以来」というのも、どれほどと示さない意である。「成仏」と「仏性」は異なるものではないのである。


/「成仏以来に具足する」とは、第一段の「如来は常住にして変易有ること無し」の意である。世間では、「仏性」は理として具わっていて、「成仏」の時に現れるのだと考えられているが、衆生を「仏性」と言う時は、変易(変化)が無いということなのである。


/「同参」とは、また、「成仏」と「仏性」を等しくさせるのではない。「成仏よりさき」も「のち」も同じなのである。「さき」「のち」という言葉に区別が無いのが「仏性」の道理である。



〔『正法眼蔵』私訳〕

およそ仏性の道理を明らめた先人は少ない。(おほよそ仏性の道理、あきらむる先達すくなし。)


諸々の阿含教や経典・論典の学者たちが知るはずがない。(諸阿岌摩教ショアギュウマキョウおよび教論師のしるべきにあらず。)


仏祖の法を嗣いだ児孫のみが伝えているのである。(仏祖の児孫のみ単伝するなり。)


仏性の道理は、仏性は成仏の前に具わっているのではなく、成仏の後に具わるのである。(仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。)


仏性は必ず成仏とともに修行するのである。(仏性かならず成仏と同参するなり。)  


この道理を、よくよく参究し功夫すべきである。(この道理、よくよく参究功夫すべし。)


二十年も三十年も功夫し参学すべきである。(三二十年も功夫参学すべし。)



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