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正3-3-2②『第三仏性』第三段その2②〔私達の日常生活の際限ないはたらきは、際限ない神通力のはたらきである〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

六神通ロクジンツウはただ阿笈摩教アギュウマキョウにいふ六神通にあらず。

六といふは、前三三後三三を六神通波羅蜜といふ。



〔抄私訳〕

・この「六神通はただ阿笈摩教アギュウマキョウにいふ六神通にあらず」(六神通力は阿含経で説く神通力ではない)と言う。いかにもその根拠がある。「阿笈摩教」とは小乗の阿含経アゴンキョウである。小乗の六神通と、この六神通と、どうして同じであろうか。ただ仏性を「六神通」と説くだけなのである。


・「前三三後三三を六といふ」とあるので、普通の数のように思われるが、宗門で説く「前三々後三々」は、決して数量ではない。例えば、尽十方界を「前三々後三々」と言い、仏性を「前三々後三々」と言うのである。この六神通の六も、このように理解すべきである。


〔聞書私訳〕

/「六神通」の類に、三つの意がある。


/一つには、阿含経(最古の仏教経典)に説く六神通であり、例えば、身の上より火を出し身の下より水を出すなどと言う。


/二つには、「前三々後三々」と言うが、これは数を言うのではなく、際限がない「前三々後三々」であり、仏法で取り上げるところである。


/三つには、「明々百草頭・明々祖師意と参究する事なかれ」と言う。先の「前三々後三々」は仏法の言葉であるけれども、やはり「三」の字を挙げるので数だと思われる。「前三々後三々」は合わせれば六とも言えそうであるから、当分の間は用い難い。


/前も三々と言えば六だと思われる。六は前にもあり後ろにもあり、前後を合わせても六である。もっともこれは、数の話しではなく、際限が無いということである。



〔『正法眼蔵』私訳〕 

六神通力は、阿含経アゴンキョウに説く六種の神通力ではない。(六神通ロクジンツウはただ阿笈摩教アギュウマキョウにいふ六神通にあらず。)


六というのは、午前にも三つ三つと際限なくあり、午後にも三つ三つと際限なくある私達の日常生活のはたらきを、六種の際限ない神通力のはたらきというのである。(六といふは、前三三後三三を六神通波羅蜜といふ。)


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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...