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正3-3-1④『第三仏性』第三段その1④〔皆依は、全と依は一つであるということである〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

皆依カイエは全依ゼンエなり、依全エゼンなりと、

会取エシュし不会取フエシュするなり。



〔抄私訳〕

・また「皆依」と言うと、どうしてもやはり、依るもの・依られるものの意味合いが出て来る。だから「全依」〈全は依〉と解釈されるが、これもやはり、「全依」も「依」の意味合いが残るであろう。したがって、「依全」〈依は全〉と言う時、依るもの・依られるものの意味は解脱するのである。


・「会取し不会取するなり」(理解し理解しないのである)とある。この「会得・不会得」は、例の見・不見、聞・不聞というほどの言葉である。


〔聞書私訳〕

/「依全」〈依は全〉とは、「依」がそのまま「全」である。依るもの・依られるものを置かない意である。「山河大地」は、「全依依全」である。第二段で「時節若至すれば仏性不至なり」(時節が若し至れば、仏性は至らない〔何故ならば、時節と言えば仏性が隠れ、仏性と言えば時節が隠れるからである。〕)と言うのは、「全依〈全は依〉であり、依全〈依は全〉である」と言うのと同じことである。


/「会取エシュし不会取するなりとは、何々ということを「会す」(理解する)とも言わないところを、そのまま「不会」(理解しない)と言うのである。仏法の意は、このように、理解することを必ず「会」と言い、理解しないことを「不会」と使わないのは、例えば、若至(若し至れば)・若不至(若し至らなければ)はともに仏性であるから、誰が理解すると言い難く、誰が理解しないとも言い難いのと同じである。だから、「会」とも「不会」とも、ともに説かれるのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

皆依は、何かが何かに依るということではなく、全は依であり、依は全であり、全と依は一つであるということである。(皆依カイエは全依ゼンエなり、依全エゼンなりと、)


このように理解するが、またその理解に滞ると妄想になるから、理解しないと言って払い除けるのである。(会取エシュし不会取フエシュするなり。)


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