〔『正法眼蔵』本文〕
すでに皆依建立といふ、しるべし、仏性海のかたちはかくのごとし、さらに内外中間ナイゲ チュウゲンにかかはるべきにあらず。
恁麼インモならば、山河をみるは仏性をみるなり、仏性をみるは驢腮馬觜ロサイバシをみるなり。
〔抄私訳〕
・「すでに皆依建立といふ、しるべし、仏性海のかたちはかくのごとし」(すでに皆依建立と言う。知るといい、仏性海の形はこのようである)と言う。
・仏性は「さらに内外中間ナイゲ チュウゲンにかかはるべきにあらず」(決して内か外か中間かの問題ではない)とある。どう見ても性は内に隠れ、精神や肉体や眼耳等が達することはできないのである。一方、相(すがた)は現れた意であると多くの教家等でも説く。宗門ではそのまま山河大地をおさえて仏性と説く。「仏性をみるは驢腮馬觜を見る」などという言葉は、教家の説くところではない。実にこの仏性が説かれるところは、とりわけ甚だ深いと言えよう。
・すでに「山河をみるは仏性をみるなり、仏性をみるは驢腮馬觜ロサイバシをみるなり」(山河大地を見ることは仏性を見ることであり、仏性を見ることは、ロバのあごや馬の口元のような日常普通にあるものを見ることである)とある。「驢腮馬觜」が不意に出てきて何事かと感じたかもしれないが、宗門では多くこの言葉が引用される。ただつまるところ、「驢腮馬觜」は、みな仏性であると説くのである。本の言葉には驢唇馬觜ロシムバシ(ロバのくちびるや馬の口もと)とある。
〔聞書私訳〕
/凡夫は仏性を、多くは性と言えば内に具えているとだけ理解するのである。「内外中間にかかわるべきにあらず」(内か外か中間かの問題ではない)と言うからには、格別変わった事情はないけれども、仏性と言えば、どうしても内に心が向かうところを、特に目の前のものをあげて、「驢腮馬觜ロサイバシ」(ロバのあご・馬の口元)と言うのである。
〔『正法眼蔵』私訳〕
すでに皆依建立〈すべて仏性に依って建立される〉と言う、知るといい、仏性海(海のように広大な仏性の世界)のかたちはこのようであり、決して仏性は人間の内か外かその中間にあるのかの問題ではない。
このようであるから、山河大地を見ることは仏性を見ることであり、仏性を見ることはロバのあごや馬の口のように日常普通にあるものを見ることなのである。
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