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正-3-2①『第三仏性』第三段その2①〔三昧も六種の神通力も、仏性によって現れるのである〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

三昧六通ザンマイロクツウ、由茲発現ユウジホツゲン

しるべし、諸三昧の発現未現、おなじく皆依カイエ仏性なり。

全六通の由茲不由茲、ともに皆依仏性なり。



〔抄私訳〕

・次に「三昧六通、由茲発現。しるべし、諸三昧の発現未現、おなじく皆依仏性なり」(三昧も六つの神通力も、仏性によって現れる。知るといい、諸々の三昧が現れることもまだ現れないことも、同じくすべて仏性によるのである。)とある。


この言葉については、確かに「発現未現」の言葉は、やはり普通に理解するように、現れる時もあり、まだ現れない時もある、と理解することができる。つまるところ、仏性の上の「発現未現」と理解すべきである。


そうであるから、「皆依仏性」と説かれ、「全六通の由茲ユウジ不由茲、ともに皆依仏性なり」(すべての六神通が仏性に由る仏性に由らないのも、共にすべて仏性に依る)とある。この道理も、発現未現も、由茲不由茲も、ただ同じ道理であると理解すべきである。


〔聞書私訳〕

/疑って言う、「『皆依カイエは全依ゼンエなりと会取エシュし不会取す』(すべて仏性に依ることは、全てが仏性に依ることであると、了解し了解しないのである)と言い、或いは発現未現〈仏性が現れる仏性がまだ現れない〉と言い、或いは由茲不由茲〈仏性に由る仏性に由らない〉などと言うときに、どうして皆依〈すべて仏性に依る〉のところにおいて、全依〈全てが仏性に依る〉依全〈仏性に依ることが全て〉とだけ言って不依〈仏性に依らない〉と言わないのか。」。


/答えて言う、「ほんとうに不依〈仏性に依らない〉という道理もあるべきである。しかしこの考えは、皆依〈皆仏性に依る〉の言葉の意味が広いために、皆依のときも皆依であり、不依のときも皆依なのである。発現のときも皆依である、未現のときも皆依であり、由茲〈仏性に由る〉のときも皆依である。


これによって、『諸三昧の発現未現、同じく皆依仏性なり。全六神の由茲不由茲、共に皆依仏性なり』(諸々の三昧の発現や未現も、同じく皆仏性に依るのである。すべての六神通力が、仏性に由ることも仏性に由らないことも、共に皆仏性に依るのである)と言うのである。」。


/再び疑って言う、「もしそうであるならば、依不依、並びに会不会、由茲不由茲は、ともに不依という意味があるのか。」。


/答えて言う、「不依という意味もある。そればかりではなく、会不会、発現未現、由茲不由茲は、それぞれ互いに皆依のように理解すべきである。意は、皆依のときも由茲であり、不依のときも由茲であり、。由茲のときも由茲であり、不由茲のときも由茲である。他の発現などもこのように理解すべきである。」。


/山河と仏性を同じにして、「無明即法性、法性即無明」などと天台で説くように、どうして理解できようか。無明即法性の意味は、無明と法性とをぴったり一つであるとするのである。しかし、相対妙・絶対妙(相対的妙・絶対的妙)と立てる時、無明即法性は相対妙である。教家でやはり劣っているとする相対妙の意味合いをこちらで取ることはできない。だから、山河を見るのも仏性を見ることであり、「驢腮馬觜ロサイバシ」(ロバのあご・馬の口元)を見るのも仏性を見ることである、と広く説かれるのである。


/三界唯一心(あらゆる人間世界はただ心の現れである)と説く時、「祖師西来の意」(達磨大師が西天から東土に渡来した意義は何か、すなわち仏法とは何かにもれている「庭前の柏樹子ハクジュシ(真実は目の前にある庭の柏の樹だ)などあるはずがない。そうであるけれども、この道理は、やはり真実から離れているのである。


柏の樹と言えば祖師意は隠れ、祖師意と言えば柏の樹は隠れる。だからこそ、「和尚(知覚される対象=柏の樹)をもって人に示すことなかれ」とある弟子の反論に対する答えに、再度「庭前の柏樹子」と言う。他の物はない意である。

                      

/「発現未発現」〈仏性が現れる仏性がまだ現れない〉とは、共に「皆依仏性」(みな仏性に依る)の道理である。



〔『正法眼蔵』私訳〕

三昧(その事と一体になること)も六種の神通力も、仏性によって現れる。(三昧六通サンマイロクツウ、由茲発現ユウジホツゲン。)


知るといい、諸々の三昧が現れるのもまだ現れないのも、同じくすべて仏性によるのである。(しるべし、諸三昧の発現未現、おなじく皆依仏性なり。)


すべての六種の神通力が、仏性によることも仏性によらないことも、共にすべて仏性によるのである。(全六通の由茲不由茲、ともに皆依仏性なり。)


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