スキップしてメイン コンテンツに移動

正3-2-1①『仏性』第二段その1①〔仏性の義を知ろうと思うなら、今現に仏性が現れる時節の因縁を心に観ぜよ〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

仏言、「欲知仏性義、当観時節因縁。時節若至、仏性現前」。


《仏の言ノタマはく、「仏性の義を知らんと欲オモはば、当マサに時節因縁を観ずべし。時節若モし至れば、仏性現前す》



〔抄私訳〕

・仏性は未だ顕れず、「仏性の義を知らんと欲オモはば、当マサに時節因縁を観ずべし」(仏性の義を知ろうと思うなら、今現に仏性が現れる時節の因縁を心に観じよ)とある。「時節若し至れば、仏性現前す」というので、時節が未だ至らなければ仏性は顕れないから、時節の到来を待って眠っているのだ、或いは坐禅はすなわちこの意味合いだなどとおそらく理解している。


ここで説くのは、決してこれではない。仏性は決して穏顕オンケン(隠れたり顕れたりすること)存没ソンモツ(あったりなかったりすること)に係るものではない。この今の時節がすなわち仏性である。


〔聞書私訳〕

/第一段の「悉有は仏性なり」(すべては仏性である)と、この段の「欲知仏性義」(仏性の義を知ろうと思うなら)の言葉は、特に合わせて理解すべきである。「悉有」は「欲知仏性義」に相当し、「欲知」は覚知の意味であり、本物の覚知〈覚ること〉である。なぜなら「欲知」は仏性だからである。



〔『正法眼蔵』私訳〕 

釈尊が言うには、「仏性の義(意味)を知ろう思うなら、今現に仏性が現れる時節の因縁を心に観ぜよ。(仏の言ノタマはく、「仏性の義を知らんと欲オモはば、当マサに時節因縁を観ずべし。)

〔茶を呑む時は、今茶を呑む時を観じる。物を見る時は、今物を見る時を観じる。二十四時間中に時のない時はないから、この二十四時間は一々が仏性なのである。〕


時節がもし至れば〈時節はこのように今至るから〉、仏性はこのように今現前する。」と。(時節若モし至れば、仏性現前す。)


                            合掌




ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。合掌                       


     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

正4『正法眼蔵聞書抄身心学道第四』〔身心学道:身心の在り様がそのまま学仏道である〕

  正法眼蔵 第四身心学道 〈正法眼蔵 ショウボウゲンゾウ 涅槃妙心 ネハンミョウシン: 釈尊が自覚された涅槃妙心である一切のものの正しい在り様を、 道元禅師も自覚され、それを言語化され収められた蔵。 第四巻身心学道 シンジンガクドウ : 身心の在り様がそのまま学仏道である〉 正4-1-1『第四身心学道』第一段その1 〔仏道は、仏道以外によって仏道に擬 ナゾ えても決して当たるものではない〕 〔『正法眼蔵』原文〕     仏道は、不道 フドウ を擬 ギ するに不得 フトク なり、 不学を擬するに転遠 テンオン なり。 〔抄私訳〕   仏道は、仏道以外で学ぼうとしても出来ず、 仏道を学ばなければますます遠ざかるのである。 近頃の禅僧の中には、「宗門では言語を用いないから聖典に随わず、学問は教者 キョウシャ(仏典を解釈することによって仏法の道理を説く者 ) がなすところであるからただ坐禅して悟りを待つのだ」と言う族 ヤカラ が多い。 しかしこれは、今言うところのわが宗門の儀とは全く相違する。邪見である。そうではなく、常に師を尋ね道を訪ねて 功夫参学 (純一に修行に精進) すべきである。 *注:《 》内は聞書抄編者の補足。[ ]内は訳者の補足。〈 〉内は独自注釈。( )内は辞書的注釈。                                  合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村

後半正3-14-2②『第三仏性』第十四段その2②〔妄想してはならない〕

  〔聞書私訳〕 /「師曰、『莫妄想』、この宗旨は作麼生なるべきぞ」とある。「莫妄想」という言葉は、「両頭」にも付かずく、また、仏性にも付かず、ただ「莫妄想」ということであると理解するのである。例えば、実相を実相と言うほどのことである。諸法 〈森羅万象〉 を実相 〈真実の姿〉 と言うのではない。 /私 (詮慧和尚) は言う、「その意は、『莫妄想』の言葉を再び挙げるのである。『作麼生』の『宗旨』は『莫妄想』であるから、『妄想することなかれ』と言うのである」。 /私は言う、「『妄想すること莫れ』とは、『莫妄想』を『莫妄想』と道得することである」。 /私は言う、「『莫妄想』を回避する『両頭』はなく、『俱動』はなく、『仏性』はない。『ただ仏性は妄想なしといふか』である」。 /「莫妄想」とは、「説似一物即不中《一物に似せて説くも即ち中 アタ らず》」というのと同じことである。 /「動ずるはいかがせんといふは、動ずればさらに仏性一枚をかさぬべしと道取するか、動ずれば仏性にあらざらんと道著するか」とある。 /私は言う、「『動ずればさらにに仏性一枚をかさぬべし』という『一枚』は、『動』のほかに、『仏性』をもう『一枚』加えよと言うのではない。『仏性は一枚』であるから、『動』も『一枚』であるというのである。そのわけは、『動』に『動』を重ねるのを『仏性』の『一枚』と言い、『一枚』から『一枚』を減らすのを『動』の『俱』と言うのであるから、『動取』の半枚を破ぶるなら、『仏性』の『一枚』を破るというのである」。 〔『正法眼蔵』私訳〕 師の長沙は言う、「莫妄想」。 (師いはく、「莫妄想 マクモウゾウ 」。) この主旨は、どういうことか。妄想してはならない、と言うのである。 (この宗旨は、作麼生 ソモサン なるべきぞ。妄想すること莫 ナカ れ、といふなり。) それなら、両頭が俱に動くけれども妄想はない、妄想ではないと言うのか、それとも、ただ仏性には妄想はないと言うのか。 (しかあれば、両頭倶動するに妄想なし、妄想にあらずといふか、ただ仏性は妄想なしといふか。) 〔これは理の響くところを、試験されるのだ。〕 長沙は仏性のことは少しも言わず、両頭のことも少しも言わず、ただ「妄想なし」と言うのかとも、参じてみよ。 (仏性の論におよばず、両頭の論におよばず、ただ妄想なしと道取するかとも参究すべし...

後半正3『第三仏性』全十四段の総まとめ 完了

  ◯第八段 斉安 セイアン 国師いはく、「一切衆生有仏性」。 斉安国師は言う、「一切の衆生は有であり仏性である。」 ◯第九段 大 潙 山 ダイイサン 大円 ダイエン 禅師いはく、「一切衆生無仏性」。 大 潙 山の大円禅師は言う、「一切の衆生は無であり仏性である」。    ◯第十段 百丈山 ヒャクジョウサン 大智禅師いはく、「仏はこれ最上乗なり、これ上々智なり、これ仏道立此人 リッシニン なり」 百丈山の大智禅師は言う、「仏は最上の乗り物である、比較するものがない智慧である、仏道によって生きている人である」。 ◯第十一段 黄檗 オウバク いはく、「十二時中一物にも依倚 エイ せずして始得 シトク ならん」 黄檗は言う、「四六時中何ものにも寄りかからなければ、初めて仏性を明らかに見ることができるのだ」。 ◯第十二段 趙州 ジョウシュウ いはく、「無」。 趙州は言う、〔「犬に仏性が有るか無いか?」と問われた時、〕趙州は、「無」と言った。 ◯第十三段 趙州いはく、「有」。 〔「犬に仏性が有るか無いか?」と問われた時、〕趙州は、「有」と言った。 ◯第十四段 ・長沙 チョウサ 和尚いはく、「莫妄想 マクモウソウ 」。 〔ミミズが切られて二つとなり、二つとも動いています。さて、仏性はどちらにあるのでしょうかと問われた時、〕長沙和尚は、「妄想することなかれ」と言った。 ・道元禅師いはく、 「 向上に道取するとき、作麼生 ソモサン ならんかこれ仏性。また委悉 イシツ すや。三頭八臂 サンズハッピ 」。 道元禅師は言う、「 一歩進めて言うと、どんなものもみな仏性である。さらに委しく言うなら、仏性は頭が三つで臂 ヒジ が八本である。百千万境の一々が仏性、一段も両段も、散も未散も、暫時も不暫時も、一つとして仏性でないものはないのだ」。                      合掌 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                              ↓               ↓       にほんブログ村