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正3-1-15『第三仏性』第一段その15〔根も茎も枝も葉も、みなともに生き、ともに死に、はじめ芽が生ずるときから枯死するまで残らず仏性であり余物はないぞ〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

果裏カリに種子あり、種子みえざれども、根茎コンキョウ等を生ず。


あつめざれどもそこばくの枝条大囲シジョウ ダイイとなれる、内外ナイゲの論にあらず、古今ココンの時に不空なり。


しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉みな同生ドウショウし同死ドウシし、同悉有ドウシツウなる仏性なるべし。




〔聞書私訳〕

/「たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉、みな同生し同死し、同悉有なる仏性なるべし」とは、草・木に、根・茎・枝・葉の始めから終わりまで皆一つずつ置いて、生と使い死と使うので悉有である仏性であるということである。一つずつとは、根・茎或いは枝・葉の一つずつである。


/花が開く時を生と言うなら、花が散る時も散る生である。花や果実は、花や果実のそれぞれの位である。生が死になるというように理解してはならない。


/この「同生し同死し同悉有なる仏性なるべし」の言葉は、別に子細はない。同じという意味である。およそ、仏性は縁に随い時に依って現れる道理はないと言う。


もっとも、師に求めず経巻に依らないではできないことであるから、どうして師に依り、経巻に依ると言わないのかという非難があろう。そうではあるが、或いは師に従い、或いは経巻に従う時、はじめて得ることであると学ばないことが、或いは師に従い、或いは経巻に従うことの大事なところである。


/「如来は常住にして、変易有ること無し」とは、「衆生は常住にして、変易有ること無し」という意味もある。そうであるから、「一切の祖師の頂寧眼晴チンネイガンゼイ(頭頂・目玉)というのも、「一切の衆生の頂寧眼晴」とも言うことができる。


一般には、「一切衆生、悉有は仏性なり」の後の言葉として、「如来は常住にして、変易有ること無し」と言い難い。仏性が常住であると言うなら、「変易有ること無し」とは言えない。


ところが、第五段に、「仏性の道理は、仏性は成仏より前に具わるのではなく、成仏より後に具わるのであり、仏性は必ず成仏と同参するのである」とある、この理に合わせて考えるべきである。


/「衆生に仏性あり」とは、『第一現成公案』の巻の「迷を大悟するのは衆生であり、悟に大迷であるのは諸仏である」という意味合いである。


この道理はまた、「悟の上に悟を得る人、迷の中で迷う人」である。これはまた、「如来は常住にして、変易有ること無し」の道理でもあるのである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

実の中に種があるというが、どこにあるか見えないけれども、根や茎などを生じる。(果裏カリに種子あり、種子みえざれども、根茎コンキョウ等を生ず。)


あれこれと取り合わせたのではないが、いく抱えもあるような大木になる。だから仏性は内にあって外にはないなどと限定するものではなく、仏性は昔も今も現れ通しで、どこという限定がない。(あつめざれどもそこばくの枝条大囲シジョウ ダイイとなれる、内外ナイゲの論にあらず、古今ココンの時に不空なり。)


根茎等の論は凡夫の考えに任せるとしても、根も茎も枝も葉も、みなともに生き、ともに死に、はじめ芽が生ずるときから枯死するまで残らず仏性であり余物はないぞ。(しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉みな同生ドウショウし同死ドウシし、同悉有ドウシツウなる仏性なるべし。)

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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

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〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...