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正3-1-14『第三仏性』第一段その14〔草木花葉実種はそれぞれみな仏性である〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

ある一類おもはく、仏性は草木ソウモクの種子シュウジのごとし。

法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽茎生長ゲキョウ ショウチョウし、枝葉花菓シヨウ ケカもすことあり、果実さらに種子をはらめり。

かくのごとく見解ケンゲする、凡夫ボンプの情量ジョウリョウなり。

たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果ケカ、ともに条々の赤心セキシンなりと参究サンキュウすべし。

果裏カリに種子あり、種子みえざれども、根茎コンキョウ等を生ず。

あつめざれどもそこばくの枝条大囲シジョウ ダイイとなれる、内外ナイゲの論にあらず、古今ココンの時に不空なり。

しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉みな同生ドウショウし同死ドウシし、同悉有ドウシツウなる仏性なるべし。              



〔抄私訳〕

・また、或る一類のことをここに挙げられるのは、文の通りである。これは「凡夫の情量なり」〈凡夫の妄想分別〉と斥けられるのである。


・たとえ凡夫の考えのようであっても、ただ「種子および花果ともに条々の赤心なりと参究すべし」とあるのは、例えば、凡夫が思うような、草木種子芽茎枝葉花果であっても、すべてみな仏性であると説くのである。


本当に、根茎を「あつめざれどもそこばくの枝条大囲となれる、内外の論にあらず、古今の時に不空なり」〈この種、あの種と取り合わせたのではないが、いく抱えもあるような大木になる。だから仏性は内にあって外にはないなどと限定するものではなく、仏性は昔も今も現れ通しで、どこという限定がない。〉とある。


これは、眼の前に現れているありさまのことを言っており、「たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉、みな同生し同死し、同悉有なる仏性なるべし」〈根茎等の論は凡夫の考えに任せるとしても、根も茎も枝も葉も、みなともに生き、ともに死に、はじめ芽が生ずるときから枯死するまで残らず仏性で余物はないぞ〉と学ぶべきである。




〔『正法眼蔵』私訳〕

ある者たちが思うには、仏性は草木の種子のように、桃の種を蒔くと桃の芽が出る、柿の種を蒔けば柿の芽が出るようなものである。(ある一類おもはく、仏性は草木ソウモクの種子シュウジのごとし。)


雨露の湿いに依って、芽や茎が生長し、枝や葉、花や実が茂り、果実は中にさらに種をはらむようである。(法雨のうるひしきりにうるほすとき、芽茎生長ゲキョウ ショウチョウし、枝葉花菓シヨウ ケカもすことあり、果実さらに種子をはらめり。)


このように、人間の腹の中に仏性という種子があると邪解ジャゲするのは、凡夫の妄想分別であり、仏性はそんなものではない。(かくのごとく見解ケンゲする、凡夫の情量ジョウリョウなり。) 


凡夫は、花や葉は中に種子がないから仏性ではないと考えるが、それは違う。種子も花も果実も、みな一つ一つ仏性であると学ぶべきである。(たとひかくのごとく見解すとも、種子および花果ケカ、ともに条々の赤心セキシンなりと参究サンキュウすべし。)〔我々の眼耳手足、身心内外がみな仏性であり、この全身が仏性の丸出しである。悉有とはこうしたことである。〕

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