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正3-1-13『第三仏性』第一段その13〔仏性は必ずあるぞ、天地のありとあらゆるものはみな仏性であるから〕

 〔『正法眼蔵』本文〕

仏性かならず悉有シツウなり、悉有は仏性なるがゆへに。


悉有は百雑砕ヒャクザッスイにあらず、悉有は一条鉄イチジョウテツにあらず。


拈拳頭ネンケントウなるがゆゑに大小にあらず。



〔抄私訳〕

・「悉有は百雑砕にあらず」とは、悉有(ことごとくの存在)は多くの物の形を集めたものでもないということである。


・また、「悉有は一条鉄にあらず」とは、一つを丸めて置いた形でもない。ただ「拈拳頭」(こぶしを作る)という具体的事実であり、悉有はまた大小という抽象概念ではないという道理はその通りである。


〔聞書私訳〕

/「悉有は百雑砕にあらず、悉有は一條鉄にあらず。拈拳頭なるがゆゑに」とは、


/これは、悉有は個別のものを取り上げて、何々と言うことがないから、このように「あらずあらず」と言うのである。また、何々と言えないのではないところを返して、「拈拳頭」と言うのである。


/この「百雑砕」「一条鉄」の言葉は、色々な解釈があろう。先ず、「悉有」という二字を取って、の字を衆生の方に付け、は仏性の方に付け、「一切衆生に悉く、仏性有り」と考える。けれども、「は百雑砕にあらず、は一条鉄にあらず」と言うことができよう。その理由は、一切衆生とあるので、この言葉が含んでいる数多くという意味合いにちなんで、「悉く」と置き、仏性は一切衆生にあるけれども、その体は二ではないから、一の字にちなんで「一条鉄」と言うのか。


しかし、「悉有」の二字が分かれて二つとなるべきではない。すでに「悉有」の二字を、衆生と言い、仏性と言うために、「悉」を「ことごとく」と読むけれども、仏性の上で説くときは、「数多く」と理解するのはふさわしくないから、「百雑砕」も用いる理由がなく「百雑砕にあらず」と斥け、仏性は「一に非ず二に非ず」の道理なので、「一条鉄」の一の字も無駄になってしまう。従って、「一条鉄にあらず」と斥けるのである。


結局、「悉有」をそのまま仏性と言うからには、有無にも係わってはならず、百とか一とかの数にも滞ってはならない。ただ「衆生の内外」が、「仏性の悉有」である道理を十分に理解すべきなのである。


/「仏性は必ず悉有なり」と言い、「悉有は仏性なり」と言ったので、「悉有は百雑砕にあらず」と言われ、「悉有は一条鉄にあらず」と言われるのである。例えば、悉有は悉有ではない、仏性は仏性でないと言うようなものである。そうであるから、否定する言葉ではないと理解すべきである。


〔『正法眼蔵』私訳〕

仏性は必ずあるぞ、天地のありとあらゆるものはみな仏性であるから。(仏性かならず悉有シツウなり、悉有は仏性なるがゆへに。)


悉有〈天地のありとあらゆるもの〉というと、壊れたかけらのようにいくつもいくつもあると思うようだがそうではない。全世界は一仏性だから、ばらばらにあると思うな。さりとて、悉有は汽車のレールのようなものがずうっと続いているというのでもない。(悉有は百雑砕ヒャクザッスイにあらず、悉有は一条鉄イチジョウテツにあらず。)〔これは外道の常見を斥けられるのである。〕


仏性はそこそこの現成であるから、こぶしを作り手を挙げれば挙げるのが仏性、下げれば下げるのが仏性である。喫茶喫飯キッサキッパン、坐臥経行ザガキンヒン、一々がみな仏性である。(拈拳頭ネンケントウなるがゆゑに大小にあらず。)

                           

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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

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