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正3-1-12『第三仏性』第一段その12〔覚知は神経細胞の動きではない〕

〔『正法眼蔵』本文〕

たとひ覚知を学習すとも、覚知は動著ドウチャクにあらざるなり。


たとひ動著を学習すとも、動著は恁麽インモにあらざるなり。


もし真箇シンコの動著を会取エシュすることあらば、真箇の覚知覚了を会取すべきなり。


仏之与性ブッシヨショウ《仏と性と》、達彼達此タッピタッシ《彼に達し此れに達す》なり。


〔抄私訳〕

・また、「真箇の動著を会取する事あらば」〈本物の動著を会得することがあれば〉とあるのは、この直指(悟りを直接指し示すこと)の方から説く動著を許るされるのである。動著をこのように学べば、「覚知覚了」もこのように「会取すべきなり」と、許るされるのである。この道理が、「仏之与性、達彼達此」仏と性は、仏は性に達し性は仏に達している)と言われるのである。仏は修行により現れ、性は内に具わると一般の人は思っているが、それは「達彼達此」のことではない。

〔聞書私訳〕

/「仏之与性、達彼達此」とは、仏と性の関係、つまり仏と性とはそれぞれ別ではないことを言うのである。その理由は、一般の人は、すでに成仏したのを仏と呼び、仏になることができる性が具わっていることを仏性と呼んでいる。だから、「一切衆生悉有仏性」〈一切は衆生であり、悉有であり、仏性である〉を、ここでは衆生の全体が仏であるから、「仏之与性、達彼達此」と言って、仏と性と異なることがない道理を表わすのである。


/仏と性の関係は、「大乗の因は諸法実相(森羅万象は真実のすがた)であり、大乗の果もまた諸法実相である」というほどのことである。


/これは決して凡夫の因果ではなく、仏の因であり仏の果の意味である。非因非果(因に非ず果に非ず)とも説き、或いは因果不二(因と果は二つではない)とも説くのは、この意である。因があれば必ず果が来ると言ってはならない。外道の説にも非因非果があるが、これはここで説く非因非果とは異なる。



〔『正法眼蔵』私訳〕

たとえ覚知を学習しても、覚知は動著〈神経細胞の動き〉ではないのである。(たとひ覚知を学習すとも、覚知は動著にあらざるなり。)


たとえ動著を学習しても、動著は覚知ではないのである。(たとひ動著を学習すとも、動著は恁麽にあらざるなり。)


もし本物の動著を会得することがあれば、本物の覚知覚了を会得することができるのである。(もし真箇の動著を会取エシュすることあらば、真箇の覚知覚了を会取すべきなり。)

  

あれも仏性であればこれも仏性である。心性が直ちに仏、仏が直ちに心性で、仏と性は性にも仏にも達し、仏と性とは一つである。(仏之与性《仏と性と》、達彼達此《彼に達し此れに達す》なり。)

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正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...