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正3-1-3 『第三仏性』第一段その3〔みな仏性によって在らせられて、仏性に成り切っている〕

〔『正法眼蔵』本文〕

知るべし、いま仏性ブッショウに悉有シツウせらるる有は、有無の有にあらず。

悉有は仏語なり、仏舌なり。仏祖眼晴ガンゼイなり、衲僧鼻孔ノウソウビクウなり。

悉有の言ゴン、さらに始有シウにあらず、本有ホンヌにあらず、妙有ミョウウ等にあらず。

いわんや縁有エンウ・妄有モウウならんや。心境・性相ショウソウ等にかかわれず。

しかあればすなはち、衆生悉有の依正エショウ、しかしながら業増上力ゴウゾウジョウリキにあらず、妄縁起にあらず、法爾ホウニにあらず、神通修証ジンヅウシュショウにあらず。

もし衆生の悉有それ業増上力および縁起法爾等ならんには、諸聖の証道および諸仏の菩提ボダイ、仏祖の眼晴も業増上力および縁起法爾なるべし。しかあらざるなり。


〔抄私訳〕

・「しるべし、今仏性に悉有される有は、有無の有にあらず」〈みな仏性によって在らせられて仏性に成り切っている時の有は、有無の有ではないぞ〉とあるが、いかにもその趣旨がある。


・「悉有は仏語なり、仏舌なり。仏祖眼晴なり、衲僧鼻孔なり」〈悉有とは仏の言葉であり、仏の口で説かれたものであり、残らず仏性ということだ。諸仏諸祖の眼玉だといい、さらに禅僧の鼻の穴だと極く近くを示される。それそれがみな仏性だ〉とあるのは、この悉有の意がこれらほどの意味であるからである。一般の「悉有仏性」(「悉く仏性有り」)は、決して「悉有は仏性なり」のたぐいではない。


・「悉有の言、さらに始有にあらず、本有ホンヌにあらず、妙有等にあらず。」(悉有ということは、決して始有でもなく、本有でもなく、妙有でもない。)ということは言うまでもないことである。「いわんや縁有・妄有ならんや。心・境・性・相等にかかわれず。」(まして、縁有や妄有というものであろうはずがない。また、主観と客観、本質と現象といった類の概念理解と拘わらないのである)という理は、その通りである。


・また、「衆生悉有の依正エショウ、しかしながら業増上力ゴウゾウジョウリキにあらず、妄縁起にあらず、法爾ホウニにあらず、神通修証ジンヅウシュショウにあらず。」〈衆生の悉有という時は依(環境)(身体)ともに仏性である。この衆生の悉有は業に依って力を増長して行くことには拘わらない。また妄想によって生じるものでもない。また自然に生じるものでもない。また神通力や修行によって無理に仏性にしようということでもない〉ということは、いかにもその趣旨がある。


・「衆生の悉有それ業増上力および縁起法爾等ならんには、諸聖の証道および諸仏の菩提ボダイ、仏祖の眼晴も業増上力および縁起法爾なるべし。しかあらざるなり。」〈衆生の悉有である仏性が、業に依って力を増長して行くもの、縁によって生じるもの、自然に生じるものなどであれば、聖者たちの悟りや諸仏の悟りも、諸仏諸祖の皮肉骨髄も、業に依って力を増長して行くもの、縁により生じるもの、自然に生じるものとなるが、そうではないのである〉とは、衆生が具えている業の力等を、我々はみな凡夫が考えるように理解している。しかし、仏性の方から見ればこれらはみな仏性であり、決して衆生が考えるような業の力等ではなく、みな仏性である。だから、「しかあらざるなり」と決定されるのである。

〔聞書私訳〕                                

/「依正エショウ」とは、「依」は国土等(身体の依りどころとなる一切世間の事物や国土)であり、「正」は身体(前業によって受けた身体)である。無明(無知で真理にくらいこと)が法性(一切のものの本性)を覆オオうとは、ほかならぬ法性が法性を覆うと学ぶべきである。



〔『正法眼蔵』私訳〕

知るといい、みな仏性によって在らせられて仏性に成り切っている時の有は、有無の有ではないぞ。(知るべし、いま仏性ブッショウに悉有シツウせらるる有は、有無の有にあらず。)


悉有とは仏の言葉であり、仏の口で説かれたものである。だから有無の有などというものではない、残らず仏性ということだ。こういうと、仏の方ばかりと考えるから、諸仏諸祖の眼玉だといい、さらに引き下ろして、禅僧の鼻の穴だと極く近くを示され、それそれがみな仏性だ。(悉有は仏語なり、仏舌なり。仏祖眼晴ガンゼイなり、衲僧鼻孔ノウソウビクウなり。)


この悉有の有というのは、仏性が始めてできたというので有と言うのではない、衆生は本来成仏だから。それなら、本有(本来存在するもの)、か、いやそうでもない、修行しなければ現われないから。では妙有(有のようであるが本性は空であるもの)か、そうでもない、言葉の理解だけでは物にならないから。(悉有の言ゴン、さらに始有シウにあらず、本有ホンヌにあらず、妙有ミョウウ等にあらず。)


「仏種(仏性)は縁に従り起る」の理解の仕方で、平凡な考え方をすればみな妄想になる、仏性は無明縁起のものでもない。また、主観と客観、本質と現象などと概念理解でいろいろ言うが、言葉を聞いて言葉で済ますのはみな妄想で、本当に仏性が現じたのではない。だから概念理解などでは一つも当たることはないぞ。(いわんや縁有エンウ・妄有モウウならんや。心境・性相ショウソウ等にかかわれず。)


だから、衆生の悉有という時は依(環境)(身体)ともに仏性である。この衆生の悉有は業に依って力を増長して行くことには拘わらない。また妄想によって生じるものでもない。また自然に生じるものでもない。また神通力や修行によって無理に仏性にしようということでもない。(しかあればすなはち、衆生悉有の依正エショウ、しかしながら業増上力ゴウゾウジョウリキにあらず、妄縁起にあらず、法爾ホウニにあらず、神通修証ジンヅウシュショウにあらず。)


もし衆生の悉有である仏性が、業に依って力を増長して行くもの、縁によって生じるもの、自然に生じるものなどであれば、聖者たちの悟りや諸仏の悟りも、諸仏諸祖の皮肉骨髄も、業に依って力を増長して行くもの、縁により生じるもの、自然に生じるものとなるが、そうではないのである。(もし衆生の悉有それ業増上力および縁起法爾等ならんには、諸聖の証道および諸仏の菩提ボダイ、仏祖の眼晴も業増上力および縁起法爾なるべし。しかあらざるなり。)

*注:《 》内は御抄著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は著者の補足。

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  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

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〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...