スキップしてメイン コンテンツに移動

正3-1-2『第三仏性』 第一段その2〔お前と呼ばれる誰もが仏そのものであり、このように現成しているのだ〕 

 〔『正法眼蔵』本文〕                                                        

世尊道の「一切衆生、悉有仏性」は、その宗旨シュウシいかん。     

是什麼物恁麼来ゼジュウモブツインモライ《是れ什麼物ナニモノか恁麼インモに来キタる》の道転法輪なり。                          

あるいは衆生といひ、有情といひ、群生グンジョウといひ、群類といふ、 

悉有の言ゴンは衆生なり、群有なり。すなはち悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ。                        

正当恁麼時ショウトウインモジは、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。        

単伝する皮肉骨髄のみにあらず、汝得吾皮肉骨髄ニョトクゴヒニクコツズイ《汝、吾が皮肉骨髄を得たり》なるがゆゑに。                  


〔抄私訳〕

・世尊が言われた「一切衆生、悉有仏性」とは、どういうことか。「是什麼物恁麼来ゼジュウモブツインモライ〈お前は何物?でこのように来たのか?という問いの言葉が、お前と呼ばれる誰もが、何物〈仏性〉がこのように現前しているのだという説法である〉という言葉は、六祖大鑑慧能禅師ダイカンエノウゼンジと新参者の南嶽ナンガク懐譲エジョウの問答のお言葉である。「衆生」「悉有」〈すべての存在〉「仏性:仏そのもの」の何れもがこの道理である。その内の一つを一家の主人として説けば、「是什麼物恁麼来」のたぐいはありえない。これは、「衆生」も「悉有」も「仏性」も、皆同じ程度なので「恁麼来」〈このように現成している〉という道理なのである。


・「あるいは衆生といい、有情といい、群生グンジョウといい、群類という」とあるのは、衆生の別の名をあげられるのである。


・「悉有の言は衆生なり」とは、「悉有」〈すべて〉と「衆生」が一つであるということである。しかし、一般には、衆生は五蘊ゴウン(色受想行識)が集まっている身体であり、その身体内に仏性というものが具わっているが、修行しない時は顕れず、或いは善知識(善徳の智者)に従い、或いは経巻に従い修行する時は、仏性が顕れ、顕れれば即座に仏であると説く。だから、「悉」を「衆生」につけ、「有」を「仏性」につけて「衆生には悉コトゴトく、仏性が有る」と理解するが、今の「悉有シツウ」はこのたぐいではなく、「衆生は、悉く仏性である」(衆生はすべて仏そのものである)


・「悉有の一分を衆生という」(すべてが仏である悉有の中の一分を衆生と言う)とあるのは、悉有は迷であり、悉有は悟であり、或いは悉有は生であり、悉有は死であると説いても、悉有は仏性であるから相違しない。けれども、今は、「悉有は衆生なり」という言葉を、「悉有の一分を衆生という」と書かれるのである。


・また、「正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり」(正にそのような時は、衆生の内も外も即ち仏性の悉有である)と言う。一般には、衆生の内にこそ仏性は有ると説くから、「衆生の内外すなはち仏性の悉有なり」と書かれることは理解し難いであろうが、今説くところの衆生は、仏性であるからには、衆生の内か外かは論ずるまでもなく、今更疑うべきもないのである。


・「単伝する皮肉骨髄のみにあらず」とは、物を相対せず区別せず、そのままその理の上で説くことを、「単伝する皮肉骨髄」と言うのである。例えば、尽十方界真実人体(全世界がそのまま仏の姿である)と説く言葉が「単伝」の「皮肉骨髄」に相当するのである。但しまた、このように説くだけでもない。「汝、吾が皮肉骨髄を得たり」と説く筋も有るのである。このことを表すために、「単伝する皮肉骨髄のみにあらず、汝、吾の皮肉骨髄を得たりなるが故に」(単伝する皮肉骨髄だけでなく、汝も吾れの皮肉骨髄を得ているからである)とあるのである。もっとも、このように、文面は変わっているように説かれるけれども、ただ同じことである。少しもその理は相違しないのである。

〔聞書私訳〕

/「世尊道の一切衆生悉有仏性は、その宗旨いかん。是什麼物恁麼来《是れ什麼物か恁麼に来る》の道転法輪なり」と言う。この如何イカンとは、普通の問答の如何(どうか)と理解してはならない。如何是仏(いかなるもこれ仏)の意である。なぜならば、「是什麼物恁麼来の道転法輪なり」〈お前と呼ばれる誰もが何物〈仏性〉であり、このように現成しているのだ〉であるからである。


/結局、「尽十方界は自己の光明」とも、「尽十方界は沙門シャモン(修行僧)の一隻眼〈肉眼以外の仏法上の片眼〉」とも説くからには、何が何に由るとも由らないとも、言うことができないから、証不由他ショウフユタ(悟りは他に由らず)という言葉も容易に理解できるのである。


/「従無住本立一切法」〈無住の本より一切の法を立つ:一切の存在は基づくものがないという基本によって成り立つ〉という言葉がある。この道理によって、また、「是什麼物恁麼来ゼジュウモブツインモライ〈お前と呼ばれる誰もが何もの〈仏性〉であり、このように現成しているのだ〉の言葉によって、仏性の意義も明らかにすることができる。例えば、一切とは何ものか、衆生とは何ものか、悉有とは何ものか、というほどのことを、まとめて「是什麼物」(これは何ものか)と言うのである。だから、この言葉が引用されるのである。「自証自悟」(自ら証し自ら悟る)と言うからといって、師について学ばず自ら悟るということはない。初祖(菩提達磨)が二祖(慧可)に伝法されたその時、初祖の皮肉骨髄〈仏法の全体〉を二祖に認可され、初祖の皮肉骨髄が、そっくりそのまま二祖の皮肉骨髄と成ったからこそ無師であり、これを「無師独悟」(師無くして独り悟る)と言うのである。世間の凡夫が師もなく、自ら悟るというようなのは、迷妄の考えであり信用するに足らない。


/衆生と説く時も、「説似一物即不中セツジイチモツソクフチュウ(一物に似せて説くけれども即ち中アタらない)、悉有と説く時も、「説似一物即不中」、仏性と説く時も、「説似一物即不中」である。


/だからこそ、「是什麼物恁麼来の道転法輪」(是れ什麼物ナニモノか恁麼インモに来る」という問いがそのまま説法〈お前と呼ばれる誰もが何もの〈仏性〉であり、このように現成しているのだ〉)である。


/「悉有」の語に加えて、「即有」とあるのは、「悉有」よりは「即有」と言う方が一体であるからか、疑わしい。しかし、そうではない。「悉有」の言葉に仏性が極まっているが、やはり世間の人の心には、「悉有」をただの言葉だと深く固執する心がある所を除こうとして、「即有」と言うけれど、「悉有」と同じである。「悉有」の有は、例えば、「火の中に火が有り、水の中に水が有る」というほどのことである。別に物を置いて、有りとは言わず、ただ「仏性の悉有」は衆生である。


/「悉有の一分」とは、辺際の無いものの一分であり、決して二に対する一ではない。


/「単伝」とは、何かを受けて伝えるということではない。「衆生の内外」が、「仏性の悉有」である「単伝」である。汝ではない、誰でもない、とも言われる。だから、「単伝する皮肉骨髄」なのであり、汝はとりもなおさず誰なのである。誰がまた汝なのである。だから、衆生に仏性があると言う。だから、「汝得吾皮肉骨髄」〈汝という誰もが吾れの皮肉骨髄〈仏性〉を得ている〉である。


/天台の教義でも絶の意味合いでは、たとえば、薪を火に入れれば、火が燃え移って少しもとぎれずと見えるうちに、薪がなくなれば火も消えるように、今は対すべき物がないので絶待妙(比較・相対を絶してすべてを妙としてとらえること)と言うけれど、なんとかして妙と生死涅槃を一つにし、出会わせるまでのことであり、はっきりと仏性を悉有と使うほどのことはない。この意を『現成公案』の巻では、「諸法の仏法なる時節」(森羅万象が仏法である時節)で迷悟を一つに説くのである。これも迷悟を一つと言えばやはり相対する意味合いが残るから、「一方を証すれば一方は隠れる」と言う時に、仏性の本義が独立するのである。                                  


〔『正法眼蔵』私訳〕

釈尊が言われた「一切の衆生は、すべて仏そのものである」(一切衆生、悉有仏性)の根本の趣旨はどういうことか。(世尊道の「一切衆生、悉有仏性」は、その宗旨いかん。)                    


それは、「是れ什麼物ナニモノか恁麼インモに来る」〈お前は何物でこのように来たのか〉という問いがそのまま説法〈お前と呼ばれる誰もが何物〈仏性〉であり、このように現成しているのだ〉である。(是什麼物恁麼来《是れ什麼物か恁麼に来る》の道転法輪なり。)                          


或いは衆生と言い、有情(一切の生物)と言い、群生(多くの衆生)と言い、群類(多くの衆生)と言う。(あるいは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふ、)                   


悉有〈すべての存在〉とは衆生であり、群有(多くの生物)である。即ち、悉有は仏そのものである。仏そのものである悉有の一分を衆生と言うのである。(悉有の言は衆生なり、群有なり。すなはち悉有は仏性なり。悉有の一悉を衆生といふ。)                                   


正にそのような時は、衆生の内も外も即ち仏そのもの以外の何ものもない。(正当恁麼時は、衆生の内外すなはち仏性の悉有なり。)                                          


単伝する釈尊の法が達磨から真っ直ぐに伝わった弟子の皮肉骨髄だけではない、汝も〈汝と呼ばれる誰もが〉吾れの皮肉骨髄〈仏そのもの〉を得ている〈自己としている〉からである。(単伝する皮肉骨髄のみにあらず、汝得吾皮肉骨髄(汝、吾が皮肉骨髄を得たり)なるがゆゑに。)〔達磨が四人の弟子に、「吾れの皮肉骨髄を得たり」と言って、それぞれに法を伝えた故事に触れながら、「一切の衆生は、すべて仏そのものである」ことを説いているのである。〕              


*注:《 》内は御抄著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。〔 〕内は著者の補足。

                                 合掌
                               

最後までお読みいただきありがとうございます。皆さまに『正法眼蔵』に触れていただける機会をご提供したく、ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。合掌                       

     ↓               ↓

コメント

このブログの人気の投稿

総裁選挙期間中『正法眼蔵』ブログの配信を休みます。かわりに、

 今回の自民党総裁選挙は、30年の長期低迷中の日本を成長へと大胆に改革していけるか駄目かの運命を決めるものと、私は考えています。9名全員のビジョン・政策・発言を聞き、人気投票で選ばれるような総裁では、日本の成長は無理と考えられます。 そこで、369人の自民党国会議員と 105万人の自民党員が、日本の未来のために正しい判断をしてくれるよう、一つの意見としてSNSで発信しようと考えています。 まず、 拝啓 自民党国会議員各位  として新しいブログを始めました。時折覗いてみてください。またご意見などあれば是非およせください。 ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。                               ↓               ↓       にほんブログ村

正7-6-3a『第七一顆明珠』第六段3a 原文私訳〔どうあろうが、すべてはいつもみな明珠なのである〕

  〔『正法眼蔵』原文〕   既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。 しかあればすなはち、 転不転のおもてをかへゆくににたれども、すなはち明珠なり。 まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。 明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。 既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。 たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 サムサ も、たゞしばらく小量の 見 ケン なり、さらに小量に相似 ソウジ ならしむるのみなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕 酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている)とき に 珠を与える親友 (一顆明珠である自己) がいて、 親友 (一顆明珠である自己) には必ず珠を与えるのである。 (酔酒 スイシュ の時節にたまをあたふる親友あり、 親友にはかならずたまをあたふべし。) 珠を懸けられる時は、必ず酒に酔いつぶれている (全身仏法になり一顆明珠になり切っている) のである。 (たまをかけらるゝ時節、かならず酔酒するなり。) 既にこのようであることは、 十方のすべての世界である一個の明珠なのである。 (既是恁麼 キゼインモ は、尽十方界にてある一顆明珠なり。) そうであるから、転 (迷ったり) 不転 (悟ったり) と 表面を変るように見えても、中身は明珠なのである。 (しかあればすなはち、転不転のおもてをかへゆくににたれども、 すなはち明珠なり。) まさに珠はこうであると知る、すなわち これが明珠なのである。 (まさにたまはかくありけるとしる、すなはちこれ明珠なり。) 明珠にはこのように (迷っても悟ってもみな明珠だと) 知られるありさま (声色) があるのである。 (明珠はかくのごとくきこゆる声色 ショウシキ あり。) 既にこのようであるので、自分は明珠ではないと戸惑っても、 明珠ではないと疑ってはならない。 (既得恁麼 キトクインモ なるには、われは明珠にはあらじとたどらるゝは、 たまにはあらじとうたがはざるべきなり。) 戸惑い疑い、あれこれうろたえ回るありさまも、 ただしばらくの小さな考えである。 さらに言えば、明珠が小さな考えに見せかけているに過ぎないのである。 (たどりうたがひ、取舎 シュシャ する作無作 ...

正9-3-4a『第九古仏心』第三段その4a〔牆壁瓦礫が人間に造らせたのか〕

〔『正法眼蔵』原文〕   しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫 ソモサンカコレショウヘキガリャク 」 と問取すべし、道取すべし。 答話せんには、「古仏心」と答取すべし。 かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。 いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。 なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段 ギョウダン をか具足せると、 審細に参究すべし。 造作 ゾウサ より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。 造作か、造作にあらざるか。 有情なりとやせん、無情なりや。 現前すや、不現前なりや。 かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ、 此土他界の出現なりとも、古仏心は牆壁瓦礫なり、 さらに一塵の出頭して染汚 ゼンナ する、いまだあらざるなり。 〔『正法眼蔵』私訳〕     そうであるから、「どのようなものが牆壁瓦礫か」 と問うべきであり、言うべきである。 (しかあれば、「作麼生是牆壁瓦礫」と問取すべし、道取すべし。)   答えるには、「古仏心」と答えるべきである。 (答話せんには、「古仏心」と答取すべし。) 〔これで古仏心と牆壁瓦礫が少しも違わないということが、 いよいよ明らかになるのである。〕 このように保ち続けたうえで、さらに参究すべきである。 (かくのごとく保任してのちに、さらに参究すべし。)   言うところの牆壁瓦礫とは、どのようなものか。 (いはゆる牆壁はいかなるべきぞ。)   何を牆壁瓦礫と言うのか、今どのような形をしているのかと、 詳しく細やかに参究すべきである。 (なにをか牆壁といふ、いまいかなる形段をか具足せると、審細に参究すべし。) 人間が造ることで牆壁瓦礫を出現させたのか、 牆壁瓦礫が人間に造らせたのか。 (造作より牆壁を出現せしむるか、牆壁より造作を出現せしむるか。) 人間が造るのか、人間が造るのではないのか。 (造作か、造作にあらざるか。) 有情だとするのか、無情だとするのか。 (有情なりとやせん、無情なりや。)   現前しているのか、現前していないのか。 (現前すや、不現前なりや。) このように参学して、たとえ天上界や人間界であっても、 現世や来世や出現しても、古仏心は牆壁瓦礫であり、 一つの塵が出現して、古仏心が牆壁瓦礫であるという事実を 染め汚すことは、いまだないのである。 (かくのごとく功夫参学して、たとひ天上人間にもあれ...