〔『正法眼蔵』本文〕 知るべし、いま仏性 ブッショウ に悉有 シツウ せらるる有は、有無の有にあらず。 悉有は仏語なり、仏舌なり。仏祖眼晴 ガンゼイ なり、衲僧鼻孔 ノウソウビクウ なり。 悉有の言 ゴン 、さらに始有 シウ にあらず、本有 ホンヌ にあらず、妙有 ミョウウ 等にあらず。 いわんや縁有 エンウ ・妄有 モウウ ならんや。心境・性相 ショウソウ 等にかかわれず。 しかあればすなはち、衆生悉有の依正 エショウ 、しかしながら業増上力 ゴウゾウジョウリキ にあらず、妄縁起にあらず、法爾 ホウニ にあらず、神通修証 ジンヅウシュショウ にあらず。 もし衆生の悉有それ業増上力および縁起法爾等ならんには、諸聖の証道および諸仏の菩提 ボダイ 、仏祖の眼晴も業増上力および縁起法爾なるべし。しかあらざるなり。 〔抄私訳〕 ・「しるべし、今仏性に悉有される有は、有無の有にあらず」 〈みな仏性によって在らせられて仏性に成り切っている時の有は、有無の有ではないぞ〉 とあるが、いかにもその趣旨がある。 ・「悉有は仏語なり、仏舌なり。仏祖眼晴なり、衲僧鼻孔なり」 〈悉有とは仏の言葉であり、仏の口で説かれたものであり、残らず仏性ということだ。諸仏諸祖の眼玉だといい、さらに禅僧の鼻の穴だと極く近くを示される。それそれがみな仏性だ〉 とあるのは、この悉有の意がこれらほどの意味であるからである。一般の「悉有仏性」 (「悉く仏性有り」) は、決して「悉有は仏性なり」のたぐいではない。 ・「悉有の言、さらに始有にあらず、本有 ホンヌ にあらず、妙有等にあらず。」 (悉有ということは、決して始有でもなく、本有でもなく、妙有でもない。) ということは言うまでもないことである。「いわんや縁有・妄有ならんや。心・境・性・相等にかかわれず。」 (まして、縁有や妄有というものであろうはずがない。また、主観と客観、本質と現象といった類の概念理解と拘わらないのである) という理は、その通りである。 ・また、「衆生悉有の依正 エショウ 、しかしながら業増上力 ゴウゾウジョウリキ にあらず、妄縁起にあらず、法爾 ホウニ にあらず、神通修証 ジンヅウシュショウ にあらず。」 〈衆生の悉有という時は依 (環境) 正 (身体) ともに仏性である。この衆生の悉有は業に依って力を増長し