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正1-12『第一現成公案』第十二段〔人が悟りを得るのは、水に月が宿るようなものである〕

 『正法眼蔵』本文〕                                    

人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。     

ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸シャクスンの水にやどり、全月も弥天ミテンも、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。                 

さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。          

人のさとりをケイゲせざること、滴露テキロの天月を碍せざるがごとし。    

ふかきことはたかき分量なるべし。                      

時節の長短は、大水小水をケンテンし、天月の広狭を弁取ベンシュすべし。        



〔抄私訳〕                                   

この段も、悟が人を妨げないことを説く喩えに引かれたのである。先の第七段では「鏡に影を宿すが如くに非ず」と言い、「水と月の如くに非ず」と言う。この段では「水に月が宿るが如し」と説かれる。大いに前後が違っているように思われる。もっとも、先の第七段では二物が相対して、鏡と影像、水と月の関係のようではない道理を教えるためだけに、この「水に月が宿るが如し」という言葉を取り出されたのである。


この水と月の喩えを引き出されたのは、月が水を破らず、直径五十由旬ユジュン(約六十km)の大きさの月の宮殿が、四万由旬(約五万km)の高さにあるけれども、草の露にも宿り、一滴の水にも宿るところの喩えを取ろうとするためである。前と後が矛盾しているわけではなく、法と身心が何ものにも妨げられない道理を教えようとするためである。「たかき分量」(高さ)と「ふかきこと」(深さ)は、ただ同じ寸法である。この「時節の長短は、大水小水を撿点し、天月の広狭を弁取すべし」とある。水の大小が問題にならない道理をよく吟味して、天の月の広狭が同じであることを理解すべきというのである。                                                      

そもそも、このように言ったからといって、岸も舟も、或いは月も水も、ただ喩えただけのためにここに引かれたのだとして、喩えの全てを棄ててはならない。仏法の道理は、余分なものは何一つないからである。仏法の上で時節を説く時は、長短は問題にならず、三祇百大劫サンギヒャク ダイコウ(極大にして数えられない時間)も長いと言わず、また、一刹那セツナ(極めて短い時間)も短いと言わない。こぶしを挙げるのを三祇百大劫とし、一棒を下すのも一刹那とするから、時間の長短は問題とならないのである。天の月が一滴の水に宿り、草の露に宿る。どうして、直径五十由旬(約六十km)の月が、草の露の一滴の水にも宿るのか、広狭に係らない道理を述べられるのである。           


これはただ、月が水に宿っても、水を破らないことを喩えるだけであり、教説の一部の喩えに当たる。「深き事は高き分量なるべし」とは、悟りと人は、別のものであるが区別がないわけをこのように説くのである。《高いことと人の悟りの関係はこの程度である。》深さを示せばそれが高さの分量であり、高さを示せばそれが深さの分量であり、高さと深さは同じである。   


「時節の長短は、大水小水を撿点し、天月の広狭を弁取すべし」とは、水の大小と時節の長短が同じである証アカしである。これを、「人のさとりをうる」時節と言うのであり、時節が大切なのではない。                              


〔聞書私訳〕                           

/水の大小の関係と、人の悟りを得る関係が、皆等しいことを言うのである。     


/「天月の広狭を弁取すべし」とは、以前に「ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸シャクスンの水にやどり、全月も弥天ミテンも、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。」(広く大きな月の光であっても、ごくわずかな水にも宿り、月全体も天全体も、草の露にも宿り、一滴の水にも宿る。)と言ったことを、明らかにすべきと言うのである。       


そうであるから、この文からは水にも長短大小があるように思われるけれども、天の月や天全体が、長短大小の水に映ることは同じである。もし天の月や天全体にもともと長短大小がないならば、どうして水に長短大小を定めよう。例えば、第一段の「諸法の仏法なる時節」〈今向かうとこのようにある時節〉には、迷と悟、生と死は、皆同じく仏法であって勝劣がないようなものである。    


/第七段で、「身心を挙して声ショウを聴取チョウシュするに、したしく会取エシュすれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月のごとくにあらず」(身心を挙げて声を聴く時に、親しく会得するけれども、鏡に影を宿すようなものではなく、水と月との関係のようではない)と嫌うのは、聴く人と聴かれる声を設けるべきではない道理に当てて説くからである。今、「人の悟りを得る」という所では、水と月の例を引かれ、これは互いに破らず妨げない道理を述べるのである。                   



〔『正法眼蔵』私訳〕                               

人が悟りを得るのは、水に月が宿るようなものである。月〈悟り〉は濡れず、水〈人〉は破れない。(人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。)              


広く大きな光〈悟り〉であっても、ごくわずかな水〈人〉に宿り、月全体も天全体も、草の露〈人〉にも宿り、一滴の水〈人〉にも宿る。(ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸シャクスンの水にやどり、全月も弥天ミテンも、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。)                


悟りが人を破らないのは、水〈人〉に映った月〈悟り〉が水に穴をあけないようなものである。(さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。) 


人が悟りを妨げないのは、一滴の露が天の月を妨げないようなものである。(人のさとりをケイゲせざること、滴露テキロの天月を碍せざるがごとし。)


一滴の露に月が輝いているような人の悟りの深さは、天の月の高さと同じ分量である。(ふかきことはたかき分量なるべし。)   


時間の長短や水の大小は、それぞれ相対して勝劣があるのではなく同じであるという道理をよく吟味して、大きな天の月もわずかな水に宿るということを明らかにすべきである。(時節の長短は、大水小水を点し、天月の広狭を弁取すべし。)〔月が映る水に大小や広狭がないのと同じである。〕          



〔『正法眼蔵』評釈〕                        

自分が実在すると確信し、観念の中に突っ込んでいた頭を、ズボッと根こそぎ抜き出します。ハッと見ると「たった今」がドカッとあり、自分はありません。     


〈人〉と月〈悟り〉の両方がないと、水〈人〉に月〈悟り〉が宿るということにはなりません。月〈悟り〉が輝く時、水〈人〉は意識されません。悟り〈月〉が輝く時、自分〈水〉は意識されません。目の前にある壁と自分が一つとなって壁が見えますが、自分はありません〈月ぬれず、水やぶれず〉


〈人〉に波紋がないと、歪みなく月〈悟り〉が輝きます。波紋が起きると、月光が歪みます。しかし、水中の月光が歪んでも、天の月は歪みなく輝いています。心が乱れて心に映っている月光が歪んでも、雲が出てきて天の月を覆っても、天の月は歪みなく煌々と輝いています。人は様々ですが才能や能力に関係なく、誰でもいつでも月〈悟り〉が輝いています〈一滴の水にも宿る〉。悟りを得るのが早いのか遅いのか、人の器量が大きいのか小さいのか、賢明なのか愚かなのか、環境が適しているのかいないのかは、悟り〈月〉にとってはなんの関係ももなく皆同じです、どれもこれも月〈悟り〉が輝いているのです。〈時節の長短は、大水小水を撿点し、天月の広狭を弁取すべし。〉


道端の小さな泥水にも月が輝いています。荒れた大きな海にも月が輝いています。千枚田の一枚一枚にも月が輝いています。80億人の心の田の一つ一つにも月が輝いています。〈ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸シャクスンの水にやどり、全月も弥天ミテンも、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。〉             

                                                 合掌  

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