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正1-1-2『現成公案』 第一段その2〔諸法の仏法なる時節:今ここがこのようにある時節:現成公案〕〔本文私訳、評釈〕

 〔『正法眼蔵』私訳〕

森羅万象が仏法である時節、つまり今ここがこのようにある時節、(諸法の仏法なる時節、)

迷い〈人間的自分という思い込みに振り回されること〉も悟り人間的自分という思い込みから目覚めること〉もあり、修行もある、生もあり、死もある、諸仏〈無我に目覚めている人〉もあり、衆生〈無数にある思いの一つでしかない人間的自分という思いに振り回されるている人〉もある。どんなことやものがあっても、今ここがこのようにあるだけである、これが現成公案である。(すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸仏あり、衆生あり。)


〔『正法眼蔵』評釈〕                                 

一般に言う「諸法」と、仏法に言う「諸法」とは違うのです。一般に言う「諸法」は、こちらに自分がいて向こうにものあると見るのですが、「仏法なる時節」には、向こうにものがあると思われているものは、そうではなくて、それは今ここがこのように現れているだけなんだよ、それが「諸法の仏法なる時節」なんだよ、「現成公案」なんだよと、道元禅師はおっしゃるのですね。                               

今ここが、仏法で言う「諸法」なんですね。今ここがこのようにあるのです〈諸法の仏法なる時節〉。見ようと思ったから見えたのではないのです。いきなり今ここがこのように見えているのです〈諸法の仏法なる時節〉。音がすれば今ここがこのように聞こえているのです〈諸法の仏法なる時節〉。聞こうと思ったから聞こえたのではないのです。音がすればいきなり今ここがこのように聞こえているのです〈諸法の仏法なる時節〉眼耳鼻舌身意の六根が色声香味触法の六境と一つになって、今ここがこのようにただあるのです。これが今ここのありようなんですね。〈諸法の仏法なる時節〉

縁に触れて理由なく、迷い〈人間的自分という思い込みに振り回されること〉になり、悟り人間的自分という思い込みから目覚めること〉、修行になり、生になり、死になり、諸仏〈無我に目覚めている人〉になり、衆生〈無数にある思いの一つでしかない人間的自分という思いに振り回されている人〉になり、思いになり、苦しみになり、喜びになり、鳥の声になり、線香の香りになり、お茶の味になり・・・と次から次へと変化していくのです。すべて今ここのありようです。今ここはこの身心と全宇宙と一つになって現れる全宇宙の壮大なはたらきの一瞬の現れです、自分に意識されることはありませんが。無数にある思いの一つでしかない人間的自分という思い込みが消え、「諸法の仏法なる時節」である全宇宙のはたらきが今ここに現れ、今ここによって全宇宙が千変万化するのです。〔極小は大と同じく 境界を忘絶す、極大は小に同じく 辺表を見ず。『信心銘』より〕 

もう一つの観察です。迷と悟、迷悟と修行、生と死、衆生と諸仏などは人間の相対概念でしかありません。「迷」があると「悟」もあり、「迷悟」があると「修行」もあり、「生」があると「死」もあり、「衆生」があると「諸仏」もあるとも言えるのではないでしょうか。

同様に、善い悪い、好き嫌い、幸不幸、勝劣、大小、左右、上下、前後などあらゆる人間の相対概念は、一方が有るからもう一方も有り、一方が無ければもう一方も無いのです。しかも、このような人間の相対概念は、人間が観念の中で思い込んだものでしかなく〈観念とは、人間が意識の対象について持つ、主観的な像で、心理学的には、具体的なものがなくても、それについて心に残る印象でしかなく〉、実体としては存在していないのです。

今ここがこのようにある時節、つまり諸法の仏法なる時節、どんな時でも今ここがこのようにあるだけです〈諸法の仏法なる時節〉、これが現成公案ということではないでしょうか。                                                

*注:( )内は辞書敵注釈、〈 〉内は独自注釈、〔 〕内は補足。

                           合掌                                               

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