『正法眼蔵』本文〕 人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。 ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸 シャクスン の水にやどり、全月も弥天 ミテン も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。 さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。 人のさとりを 罣 碍 ケイゲ せざること、滴露 テキロ の天月を 罣 碍せざるがごとし。 ふかきことはたかき分量なるべし。 時節の長短は、大水小水を 検 点 ケンテン し、天月の広狭を弁取 ベンシュ すべし。 〔抄私訳〕 この段も、悟が人を妨げないことを説く喩えに引かれたのである。先の第七段では「鏡に影を宿すが如くに非ず」と言い、「水と月の如くに非ず」と言う。この段では「水に月が宿るが如し」と説かれる。大いに前後が違っているように思われる。もっとも、先の第七段では二物が相対して、鏡と影像、水と月の関係のようではない道理を教えるためだけに、この「水に月が宿るが如し」という言葉を取り出されたのである。 この水と月の喩えを引き出されたのは、月が水を破らず、直径五十由旬 ユジュン(約六十km) の大きさの月の宮殿が、四万由旬 (約五万km) の高さにあるけれども、草の露にも宿り、一滴の水にも宿るところの喩えを取ろうとするためである。前と後が矛盾しているわけではなく、法と身心が何ものにも妨げられない道理を教えようとするためである。「たかき分量」 (高さ) と「ふかきこと」 (深さ) は、ただ同じ寸法である。この「時節の長短は、大水小水を撿点し、天月の広狭を弁取すべし」とある。水の大小が問題にならない道理をよく吟味して、天の月の広狭が同じであることを理解すべきというのである。 そもそも、このように言ったからといって、岸も舟も、或いは月も水も、ただ喩えただけのためにここに引かれたのだとして、喩えの全てを棄ててはならない。仏