〔『正法眼蔵』原文〕
本覚を将来に求めるものではない。
いはんやいまの道は、本覚を前途にもとむるにあらず、
始覚を証中に拈来するにあらず。
おほよそ本覚等を現成せしむるは仏祖の功徳なりといへども、
始覚・本覚等の諸覚を仏祖とせるにはあらざるなり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
いわんや「ただ衆法を以て此身を合成す」
(ただ森羅万象が集ってこの身が成っている)の言葉は、
本覚(本来のさとり)を将来に求めるものではなく、
始覚(修行して始めて覚るさとり)を悟りの中に持ってくるものでもないのである。
(いはんやいまの道は、本覚を前途にもとむるにあらず、始覚を証中に拈来するにあらず。)
およそ、本覚等を現成させるのは仏祖の功徳であるといっても、
始覚・本覚などの諸々の悟りを仏祖とするのではないのである。
(おほよそ本覚等を現成せしむるは仏祖の功徳なりといへども、
始覚本覚等の諸覚を仏祖とせるにはあらざるなり。)
本覚を将来に求めるものではない 『第十三海印三昧』13-3b
合掌
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