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坐禅を坐禅であると知っている者は少ない『第十二坐禅箴』12-9-4a

 〔『正法眼蔵』原文〕

 仏祖の光明に照臨せらるゝといふは、この坐禅を功夫参究するなり。


おろかなるともがらは、仏光明をあやまりて、

日月の光明のごとく、珠火シュカの光耀コウヨウのごとくあらんずるとおもふ。


日月の光耀は、わづかに六道輪廻の業相ゴッソウなり、

さらに仏光明に比すべからず。


仏光明といふは、一句を受持聴聞し、一法を保任護持し、

坐禅を単伝するなり。


光明にてらさるゝにおよばざれば、この保任なし、この信受なきなり。


 しかあればすなはち、古来なりといへども、

坐禅を坐禅なりとしれるすくなし。


いま現在大宋国の諸山に、甲刹カッセツの主人とあるもの、

坐禅をしらず、学せざるおほし。


あきらめしれるありといへども、すくなし。


諸寺にもとより坐禅の時節さだまれり。


住持より諸僧ともに坐禅するを本分の事とせり、

学者を勧誘するにも坐禅をすすむ。


しかあれども、しれる住持人はまれなり。




〔『正法眼蔵』私訳〕

仏祖の光明に照らされるとは、この坐禅を修行し参じ究めることである。

(仏祖の光明に照臨せらるるといふは、この坐禅を功夫参究するなり。)


愚かな連中は、仏の光明を見誤って、

日月の光や玉石・灯火の輝きのようなものであろうと思っている。

(おろかなるともがらは、仏光明をあやまりて、

日月の光明のごとく、珠火の光耀のごとくあらんずるとおもふ。)


日月や玉石・灯火の輝きは、かろうじて六道(六つの迷いの世界)を輪廻する業の現れであり、決して仏の光明に比べてはならない。

(日月の光耀は、わづかに六道輪廻の業相なり、さらに仏光明に比すべからず。)


仏の光明とは、一句を聞いて心にとどめ、一法(このように坐っている様子)を保持してそのものになりきり、坐禅を単伝する(坐禅が坐禅を伝える)ことである。

(仏光明といふは、一句を受持聴聞し、一法を保任護持し、坐禅を単伝するなり。)


仏の光明に照らされるようにならなければ、坐禅を保持してなりきることはなく、坐禅を信じ受け入れることはないのである。

(光明にてらさるるにおよばざれば、この保任なし、この信受なきなり。)


そのようなわけで、坐禅が昔から伝わっていても、

坐禅を坐禅であると知っている者は少ない。

(しかあればすなはち、古来なりといへども、坐禅を坐禅なりとしれるすくなし。)


現在、大宋国の諸山の、名刹の住職の中で、

坐禅を知らず、学ばない者が多い。

(いま現在大宋国の諸山に、甲の主人とあるもの、坐禅をしらず、学せざるおほし。)


坐禅を明らめ坐禅を知っている者がいるといっても、

そういう者は少ない。

(あきらめしれるありといへども、すくなし。)


どこの寺でも昔から坐禅の時間は決まっている。

(諸寺にもとより坐禅の時節さだまれり。)


住職から諸僧に至るまで坐禅することを本来の務めとし、

修行者を勧誘する際にも坐禅を勧めている。

(住持より諸僧ともに坐禅するを本分の事とせり、学者を勧誘するにも坐禅をすすむ。)


しかし、坐禅を知っている住職はまれである。

(しかあれども、しれる住持人はまれなり。)



坐禅を坐禅であると知っている者は少ない『第十二坐禅箴』12-9-4b〔評釈〕


                              合掌

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