〔『正法眼蔵』原文〕
「若執坐相ニャクシュウザソウ、非達其理ヒタツゴリ
《若し坐相を執せば、その理に達するに非ず》」。
いはゆる「執坐相」とは、坐相を捨シャし、坐相を触ソクするなり。
この道理は、すでに坐仏するには、不執坐相なることえざるなり。
不執坐相なることえざるがゆゑに、
執坐相はたとひ玲瓏レイロウなりとも、「非達其理」なるべし。
恁麼の功夫を脱落身心といふ。
いまだかつて坐せざるものにこの道ドウのあるにあらず。
打坐時にあり、打坐人にあり、打坐仏にあり、学坐仏にあり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
「もし坐相(坐っているすがた)に執すれば、
その理に達することはない」。
(「若執坐相、非達其理」。)
ここで言う「坐相に執する」とは、坐相を捨て、
しかも坐相に触れることである。
(いはゆる「執坐相」とは、坐相を捨シャし、坐相を触ソクするなり。)
この道理は、まさしく坐仏(今こうやって坐っている仏)しているときは、
坐相(坐っているすがた)を離れることはできないということである。
(この道理は、すでに坐仏するには、不執坐相なることえざるなり。)
坐相を離れることはできないから、坐相に執すること(坐相を捨て、しかも坐相を対象として触れること)はたとえ透き通って隠れるところがなくても、
「その理に達することはない」のである。
(不執坐相なることえざるがゆゑに、
執坐相はたとひ玲瓏レイロウなりとも、「非達其理」なるべし。)
このような修行の功夫を、脱落身心(一切の束縛から離脱した身心)と言う。
(恁麼の功夫を脱落身心といふ。)
坐相に執すれば、その理に達することはない 『第十二坐禅箴』12-9-1b
合掌
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前回の殺仏はよくわかる気がする。東洋の知性の型は、西洋のように積み上げや共有が難しいが、絶対的な自由がある。
返信削除コメントありがとうございます。事実のままにいると自由自在な境涯(仏の眼)が開けるのでしょうね。
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