〔『正法眼蔵』本文〕
殺セツの言ゴン、たとひ凡夫のことばにひとしくとも、
ひとへに凡夫と同ずべからず。
又坐仏の殺仏なるは、有什麼形段ウシモギョウダン《什麼イカなる形段か有る》と参究すべし。
仏功徳すでに殺仏なるを拈挙ネンコして、
われらが殺人セツジン・未殺人ミセツジンをも参学すべし。
〔『正法眼蔵』私訳〕
殺の語は、たとえ凡夫の殺すという言葉と同じであっても、
ひたすら凡夫と同じように考えてはならない。
(殺の言、たとひ凡夫のごとくにひとしくとも、ひとへに凡夫と同ずべからず。)
また、坐仏(坐っている仏)が殺仏(坐っている人がなく仏になり切っているありよう)であるとは、
どのような形であるかと参じ究めなければいけない。
(又坐仏殺仏なるは有什麼形段ウシモギョウダン《什麼なる形段か有る》と参究すべし。)
仏の功徳がまさしく殺仏(坐っている人がなく仏になり切っているありよう)であることを取り上げて、
坐っている人がいない(殺人)か、
まだ坐っている人がいる(未殺人)かをも参じ学ぶべきである。
(仏功徳すでに殺仏なるを拈挙して、われらが殺人・未殺人をも参学すべし。)
合掌
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