〔『正法眼蔵』原文〕
南嶽いはく、「若学坐仏ニャクガクザブツ、仏非定相ブッピジョウソウ
《若し坐仏を学せば、仏は定相に非ず》」。
いはゆる道取を道取せんには恁麼なり。
「坐仏」の一仏二仏のごとくなるは、
「非定相」を荘厳ショウゴンとせるによりてなり。
いま「仏非定相」と道取するは、仏相を道取するなり。
非定相仏なるがゆゑに、坐仏さらに迴避カイヒしがたきなり。
しかあればすなはち、仏非定相の荘厳なるゆゑに、
若学坐禅すなはち坐仏なり。
たれか無住法におきて、ほとけにあらずと取捨し、ほとけなりと取捨せん。
取捨さきより脱落せるによりて坐仏なるなり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
南嶽は馬祖に言った、
「もし坐仏(坐っている仏)を学べば、仏は定ったすがたではない」。
(南嶽いはく、若学坐仏、仏非定相《若し坐仏を学せば、仏は定相に非ず》。)
今の言葉を言い抜くにはこのように坐仏を学ぶほかにないのである。
(いはゆる道取を道取せんには恁麼なり。)
坐仏がその時その時のありよう(一仏二仏のごとく)であるのは、
定ったすがたではないことをありよう(荘厳)としているからである。
(坐仏の一仏二仏のごとくなるは、非定相を荘厳とせるによりてなり。)
今「仏は定ったすがたではない」と言うのは、
仏のありようを言い抜いているのである。
(いま仏非定相と道取するは、仏相を道取するなり。)
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