〔『正法眼蔵』原文〕
坐禅を道取するにいはく、
「若学坐禅、禅非坐臥
《若し坐禅を学せば、禅は坐臥に非ず》」。
いまいふところは、坐禅は坐禅なり、坐臥にあらず。
坐臥にあらずと単伝するよりこのかた、無限の坐臥は自己なり。
なんぞ親疎の命脈をたづねん、
いかでか迷悟を論ぜん、たれか智断をもとめん。
〔『正法眼蔵』私訳〕
南嶽が坐禅について言う、
「もし坐禅を学べば、禅は坐臥ではない」。
(坐禅を道取するにいはく、若学坐禅、禅非坐臥
《若し坐禅を学せば、禅は坐臥に非ず》。)
今言うところは、坐禅をしている時は坐禅ばかりであり、
坐っているとか横になっているとかが問題になることはないということである。
( いまいふところは、坐禅は坐禅なり、坐臥にあらず。)
坐禅は坐臥ではないと単伝(身心の在り様が自己の真相を伝えるありよう)してからこれまで、無限の坐臥は自己の真相である。
(坐臥にあらずと単伝するよりこのかた、無限の坐臥は自己なり。)
どうして命脈(仏法と、それを受け伝えて断絶することがない仏祖のありよう)と親しいか疎いか尋ねるのか(どうして人間の思量で命脈に手を付けるのか)、どうして迷っているか悟っているかを問題にするのか、
誰が智慧によって迷いを断つことを求める必要があろうか。
(なんぞ親疎の命脈をたづねん、いかでか迷悟を論ぜん、
たれか智断をもとめん。)
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