〔『正法眼蔵』原文〕
南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、
「大徳、坐禅図箇什麼ズコシモ」。
江西いはく、「図作仏ズサブツ」。
この道ドウ、あきらめ達すべし。
作仏と道取するは、いかにあるべきぞ。
ほとけに作仏せらるゝを作仏と道取するか、ほとけを作仏するを作仏と道取するか、ほとけの一面出、両面出するを作仏と道取するか。
図作仏は脱落にして、脱落なる図作仏か。
作仏たとひ万般バンパンなりとも、この図に葛藤しもてゆくを図作仏と道取するか。
しるべし、大寂の道は、坐禅かならず図作仏なり、坐禅かならず作仏の図なり。
図は作仏より前なるべし、作仏より後なるべし、
作仏の正当恁麼時なるべし。
且問シャモンすらくは、この一図いくそばくの作仏を葛藤すとかせん。
この葛藤、さらに葛藤をまつふべし。
このとき、尽作仏の条々なる葛藤、かならず尽作仏の端的なる、
みなともに条々の図なり。
一図を廻避カイヒすべからず。
一図を廻避するときは、喪身失命ソウシンシツミョウするなり。
喪身失命するとき、一図の葛藤なり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
南嶽がある時、馬祖の所に行って尋ねた、
「あなたは坐禅して何を図っておるのか」。
(南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、
「大徳、坐禅して箇の何をか図る。」)
馬祖が言った、「坐っているこの通りの様子(図作仏)です」。
(江西いはく、「図作仏」。
この言葉を、明らかにし本当にそうだと合点すべきである。
(この道、あきらめ達すべし。)
作仏と言っているのは、どういうことか。
(作仏と道取するは、いかにあるべきぞ。)
仏に仏にされることを作仏と言うのか、仏を仏にすることを作仏と言うのか、仏の面目がその時その時に現れるのを作仏と言うのか。
(ほとけに作仏せらるるを作仏と道取するか、ほとけを作仏するを作仏と道取するか、ほとけの一面出、両面出するを作仏と道取するか。)
〔その時その時の様子が現れる(ほとけの一面出、両面出する)ことは、誰でもが日常行っている通りのことです。その時その時の様子だけがあり、不足も余分なものもありません。
そういう生活をしているところに、仏の境界というようなものがうかがえるのではないでしょうか。〕
図作仏(作仏の様子)は脱落であり、脱落である図作仏であるか。
(図作仏は脱落にして、脱落なる図作仏か。)
作仏はたとえ種々様々であるといっても、この坐禅の図(様子)に絡まり合っていく(葛藤しもてゆく)のを図作仏と言うのか。
(作仏たとひ万般なりとも、この図に葛藤しもてゆくを図作仏と道取するか。)
知るといい、馬祖の言うのは、坐禅はそこに必ず坐っている様子(図作仏)があり、坐禅はこうやったら必ずこうなっている様子(作仏の図)があるということである。
(しるべし、大寂の道は、坐禅かならず図作仏なり、坐禅かならず作仏の図なり。)
坐禅の図(様子)は作仏より前であり、作仏より後であり、
作仏の正にその時なのである。
(図は作仏より前なるべし、作仏より後なるべし、作仏の正当恁麼時なるべし。)
合掌
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