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非思量=思量ではない実物の様子 『第十二坐禅箴』12-1-4a

  大師いはく、「非思量」。

 いはゆる非思量を使用すること玲瓏レイロウなりといへども、

不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。


非思量にたれあり、たれ我を保任す。


兀々地たとひ我なりとも、思量のみにあらず、兀々地を挙頭コトウするなり。


兀々地たとひ兀々地なりとも、兀々地いかでか兀々地を思量せん。


しかあればすなはち、兀々地は仏量にあらず、法量にあらず、悟量にあらず、会量エリョウにあらざるなり。


薬山かくのごとく単伝すること、すでに釈迦牟尼仏より直下ジキゲ三十六代なり。


薬山より向上をたづぬるに、三十六代に釈迦牟尼仏あり。


かくのごとく正伝せる、すでに思量箇不思量底あり。

〔『正法眼蔵』私訳〕

 大師は言う、「思量ではない実物の様子」。

(大師いはく、「非思量」。)


ここで言う非思量を用いることははっきりしているけれども、

不思量底(思量していない今の様子)を思量するには、

必ず非思量(思量ではない実物の様子)を用いるのである。

(いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりといへども、

不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。)


非思量は誰でもない自分の不思量底と思量の様子であり、

不思量底と思量の自分(だれ)が非思量の生命活動である我をずっと保っているのである。

(非思量にたれあり、たれ我を保任す。)


兀々地(岩のようにゴツゴツと坐っている様子=坐禅)がたとえ非思量の生命活動である我であっても、思量だけではなく、兀々地を挙げるのである。

(兀々地たとひ我なりとも、思量のみにあらず、兀々地を挙頭するなり。)


兀々地はたとえ兀々地であっても、

兀々地は兀々地を思量することはできない。

(兀々地たとひ兀々地なりとも、兀々地いかでか兀々地を思量せん。)


そうであるから、兀々地は仏量(成仏して分かる程度の量)ではなく、法量(仏法の真実として分かる程度の量)でもなく、悟量(悟りを開いて分かる程度の量)でもなく、会量〈理解して分かる程度の量〉でもないのである。

(しかあればすなはち、兀々地は仏量にあらず、法量にあらず、悟量にあらず、会量にあらざるなり。)


薬山大師がこのように単伝(そのものがそのものを伝えること)したのは、

すでに釈迦牟尼仏より真っ直ぐに下って三十六代目である。

(薬山かくのごとく単伝すること、すでに釈迦牟尼仏より直下三十六代なり。)


薬山よりさかのぼって、三十六代前に釈迦牟尼仏があるのである。

(薬山より向上をたづぬるに、三十六代に釈迦牟尼仏あり。)


このように正しく伝えられてきたことが、

まさしく「この不思量底を思量する」(今このようにある、思量していない今の様子のままに居る)ということなのである。

(かくのごとく正伝せる、すでに思量箇不思量底あり。)



                       合掌

非思量=思量ではない実物の様子 『第十二坐禅箴』12-1-4b


赤ん坊は100%非思量の領域で生きている 『第十二坐禅箴』12-1-4c 〔『正法眼蔵』評釈〕

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