〔『正法眼蔵』原文〕
これは「大悟」は作仏サブツのごとし、「却迷」は衆生のごとし、
還作ゲンサ衆生《還つて衆生と作ナる》といひ、従本垂迹ジュウホンスイジャク《本より迹を垂る》とらいふがごとく学すべきにはあらざるなり。
かれは大覚ダイガクをやぶりて衆生となるがごとくいふ。
これは大悟やぶるゝといはず、大悟うせぬるといはず、迷メイきたるといはざるなり。
かれらにひとしむべからず。
まことに大悟無端なり、却迷無端なり。
大悟を罣礙ケイゲする迷あらず。
大悟三枚を拈来して、小迷半枚をつくるなり。
こゝをもて、雪山セッセンの雪山のために大悟するあり、
木石モクシャクは木石をかりて大悟す。
諸仏の大悟は衆生のために大悟す、衆生の大悟は諸仏の大悟を大悟す、
前後にかゝはれざるべし。
〔『正法眼蔵』私訳〕
これは、「大悟」は仏に作ナることのようであり、「却迷」は衆生のようであり、仏が還って衆生と作ナると言い、本来仏である者が衆生教化のために仮の姿となって身を現わす(本地垂迹)など、というように学ぶべきではないということである。
(これは「大悟」は作仏のごとし、「却迷」は衆生のごとし。還作衆生《還つて衆生と作ナる》といひ、従本垂迹《本に従って迹を垂る》とらいふがごとく学すべきにはあらざるなり。)
還作衆生は、大覚(仏の悟り)を破って衆生となるかのように言う。
(かれは大覚をやぶりて衆生となるがごとくいふ。)
しかしここでは、大悟を破るとも言わず、
大悟が無くなってしまうとも言わず、迷いが来たとも言わないのである。
だからそのような理解と同じだとしてはならない。
(これは大悟やぶるゝといはず、大悟うせぬるといはず、迷きたるといはざるなり。
かれらにひとしむべからず。)
実に大悟にも際限は無く、却迷にも際限は無いのである。
(まことに大悟無端なり、却迷無端なり。)
大悟を邪魔する迷はない。
大悟三つを取り上げて、少ない迷の半分を作るのである。
(大悟を罣礙する迷あらず。大悟三枚を拈来して、少迷半枚をつくるなり。)
〔大悟と迷が親しく同じものであることをこのように言うのである。〕
こういうわけで、雪山は雪山のために大悟することがあり、
木石は木石を借りて大悟することがあるのである。
(こゝをもて、雪山の雪山のために大悟するあり、木石は木石をかりて大悟す。)
諸仏の大悟は衆生のために大悟し、衆生の大悟は諸仏の大悟を大悟するのであり、以前は衆生であったが後に仏になったなどという前後とは関係ないのである。
(諸仏の大悟は衆生のために大悟す、衆生の大悟は諸仏の大悟を大悟す、
前後にかゝはれざるべし。)
合掌
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