〔『正法眼蔵』原文〕
京兆華厳寺宝智大師《嗣洞山諱休静》、因僧問、
「大悟底人却迷時如何ダイゴテイジンキャクメイジニョガ」。
《京兆キョウチョウ華厳寺ケゴンジの宝智大師《洞山に嗣す、諱イミナは休静キュウジョウ》、因みに僧問ふ、
「大悟底人却って迷ふ時如何イカン》
師云イハク、「破鏡不重照フチョウショウ、落花難上樹ナンジョウジュ
《破鏡重ねて照らさず、落花樹に上り難し》」。
いまの問処は、問処なりといへども示衆ジシュのごとし。
華厳の会エにあらざれば開演せず。
洞山トウザンの嫡子チャクシにあらざれば、加被カビすべからず。
まことにこれ参飽仏祖の方席ホウセキなるべし。
〔『正法眼蔵』私訳〕
都の京兆(長安)華厳寺の宝智大師《傍注:洞山に嗣ぐ、僧名は休静》に、
ある時僧が問うた、
「大悟に徹底した人がかえって迷うことがあるとは、どういうことでしょうか」。
(京兆華厳寺宝智大師《洞山に嗣す、諱は休静》、因みに僧問ふ、「大悟底人却って迷ふ時如何》)
師が言われた、「割れた鏡は二度と元のように映すことはなく、
落ちた花は再び木に戻ることはない」。
(師云、「破鏡重ねて照らさず、落花樹に上り難し」。)
今の問いは、問いの形をとってはいるが、
修行僧に対して師が教えを説くのと同じである。
(いまの問処は、問処なりといへども示衆のごとし。)
華厳宝智大師の会座エザ(説法の集会)でなければ、正法を説き示すことはない。
(華厳の会にあらざれば開演せず。)
洞山の法を正しく継ぐ弟子でなければ、このような加護を受けることはない。
(洞山の嫡子にあらざれば、加被すべからず。)
実にこれこそ、仏祖の教えを深く修行し十分に会得する、
仏法に則った正しい法席(修行道場)である。
(まことにこれ参飽仏祖の方席なるべし。)
合掌
大悟に徹底した人がかえって迷うことがあるとは? 『第十大悟』10-3-1b
ランキングに参加中です。よろしければクリックをお願いします。
コメント
コメントを投稿