〔『正法眼蔵』原文〕
臨済院リンザイイン慧照大師エショウダイシ云イハク、
「大唐国裏、覓一人不悟者難得
《大唐国裏ダイトウコクリ、一人の不悟者を覓モトむるに難得ナントクなり》。
いま、慧照大師の道取ドウシュするところ、
正脈ショウミャクしきたれる皮肉骨髄なり、不是フゼあるべからず。
大唐国裏といふは、自己眼睛裏ガンゼイリなり。
尽界にかゝはれず、塵刹にとゞまらず。
遮裏シャリに不悟者の一人をもとむるに難得なり。
自己の昨自己も不悟者にあらず、他己タコの今自己も不悟者にあらず。
山人、水人の古今、もとめて不悟を要するにいまだえざるべし。
学人ガクニンかくのごとく臨済の道ドウを参学せん、虚度光陰コドコウインなるべからず。
〔『正法眼蔵』私訳〕
臨済義玄大師は言う、
「大唐国の中で、一人の悟っていない者を求めても得られない」。
(臨済院慧照大師云、「大唐国裏、覓一人不悟者難得《大唐国裏、一人の不悟者を覓むるに難得なり》。)
〔底意は、あらゆる人は悟っていると言うのである。〕
今、臨済義玄大師が言うところは、
仏祖が正伝してきた皮肉骨髄(祖師が正伝する仏法)であり、間違いはない。
(いま、慧照大師の道取するところ、正脈しきたれる皮肉骨髄なり、不是あるべからず。)
大唐国の中とは、
仏の眼(尽十方界そのもの)の中のことである。
(大唐国裏といふは、自己眼睛裏なり。)
それは、尽十方界にかかわらず、数え切れないほどの世界にとどまらないのである。
(尽界にかゝはれず、塵刹にとゞまらず。)
この中で悟っていない一人を求めても得られないのである。
(遮裏に不悟者の一人をもとむるに難得なり。)
自己の昨日の自己も悟っていない者ではなく、
他者の今日の自己も悟っていない者ではないのである。
(自己の昨自己も不悟者にあらず、他己の今自己も不悟者にあらず。)
山で生計を営む人(例えば、狩人の石鞏シャッキョウ、木こりの六祖)や水で生計を営む人(例えば、船頭の船子センス、釣魚船上チョウギョセンジョウの玄沙ゲンシャ)の昔から今までに、
悟っていない者を求めても未だ得られないのである。
(山人、水人の古今、もとめて不悟を要するにいまだえざるべし。)
仏道修行者が、このように臨済の言葉を身をもって学ぶならば、
虚しく光陰を度ワタることにはならないのである。
(学人かくのごとく臨済の道を参学せん、虚度光陰なるべからず。)
合掌
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