〔『正法眼蔵』原文〕
これらの数般シュハン、ひとつを利と認じ、ふたつを鈍と認ぜざるなり。
多般ともに多般の功業を現成するなり。
しかあれば、いずれの情無情か生知にあらざらんと参学すべし。
生知あれば生悟あり、生証明あり、生修行あり。
しかあれば、仏祖すでに調御丈夫チョウゴジョウブなる、これを生悟と称じきたれり。
悟を拈来ネンライせる生なるがゆゑにかくのごとし。
参飽サンポウ大悟する生悟なるべし。拈悟の学なるゆゑにかくのごとし。
しかあればすなはち、三界を拈じて大悟す、百草を拈じて大悟す、四大を拈じて大悟す、仏祖を拈じて大悟す、公案を拈じて大悟す。
みなともに大悟を拈来して、さらに大悟するなり。
その正当恁麼時ショウトウインモジは、而今ニコンなり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
これら四つの知は一つを利とし、他を鈍としないのである。
(これらの数般、ひとつを利と認じ、ふたつを鈍と認ぜざるなり。)
これらはみないろいろな功徳あるはたらきを現成するのである。(多般ともに多般の功業を現成するなり。)
だから、どんな有情であっても無情であっても生れながらの知でないものはないと身をもって学ぶべきである。
(しかあれば、いずれの情無情か生知にあらざらんと参学すべし。)
生れながらの知があるから一生にわたる大悟があり、一生にわたる実証があり、一生にわたる修行があるのである。
(生知あれば生悟あり、生証明あり、生修行あり。)
〔我々の一生は、大悟が修行し実証し大悟するのである。〕
だから、仏祖はすでに調御丈夫(衆生を教化して仏道に導き菩提を得させる丈夫の調御者)であり、これを生れながらの悟と呼んできたのである。
(しかあれば、仏祖すでに調御丈夫なる、これを生悟と称しきたれり。)
大悟を持ち来たらせている生であるから、このようであるのである。
(悟を拈来せる生なるがゆゑにかくのごとし。)
大悟を身をもって究めぬき大悟で腹一杯になり残らず大悟になった、生れながらの悟なのである。
(参飽大悟する生悟なるべし。)
大悟を持ち来たらす参禅学道であるから、このようであるのである。
(拈悟の学なるゆゑにかくのごとし。)
そうであるから、衆生の世界をとりあげて大悟し、森羅万象をとりあげて大悟し、身体をとりあげて大悟し、仏祖をとりあげて大悟し、公案をとりあげて大悟するのである。
(しかあればすなはち、三界を拈じて大悟す、百草を拈じて大悟す、
四大を拈じて大悟す、仏祖を拈じて大悟す、公案を拈じて大悟す。)
すべてみな大悟を持ち来たって、さらに大悟するのである。
(みなともに大悟を拈来して、さらに大悟するなり。)
その正に大悟の時は、たった今である。
(その正当恁麼時は、而今なり。)
〔たった今の様子、これが大悟のすべてだ。〕
合掌
その正に大悟の時は、たった今である 『第十大悟』10-1-5b
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