〔『正法眼蔵』原文〕
《傍注:これは如浄禅師のことである。》
先師いはく、「与宏智古仏相見《宏智ワンシ古仏と相見ショウケンす》」。
はかりしりぬ、天童の屋裏オクリに古仏あり、古仏の屋裏に天童あることを。
圜悟エンゴ禅師いはく、「稽首曹谿真古仏《稽首ケイシュす、曹谿ソウケイ真の古仏》」。
しるべし、釈迦牟尼仏より第三十三世はこれ古仏なりと稽首すべきなり。
圜悟禅師に古仏の荘厳ショウゴン光明あるゆゑに、
古仏と相見しきたるに、恁麼インモの礼拝ライハイあり。
しかあればすなはち、曹谿の頭正尾正ズシンビシンを草料して、
古仏はかくのごとくの巴鼻ハビあることをしるべきなり。
この巴鼻あるは、この古仏なり。
疎山ソザンいはく、「大庾嶺頭有古仏、放光射到此間」。
《大庾嶺頭ダイユレイトウに古仏有り、放光此間シカンに射到す。》
しるべし、疎山すでに古仏と相見すといふことを。
ほかに参尋すべからず。
古仏の有処ウショは、大庾嶺頭なり。
古仏にあらざる自己は古仏の出処をしるべからず。
古仏の在処をしるは古仏なるべし。
〔『正法眼蔵』私訳〕
先師天童如浄禅師は言う、
「宏智古仏(たった今にいる人の中の第一人者)と対面した」と。
(先師いはく、「与宏智古仏相見《宏智ワンシ古仏と相見ショウケンす》」。
〔時代が隔たっており、お二人が対面することはあり得ないが、お二人とも仏(たった今にいる人)であるから、いかに時代が隔たっていても、朝夕に対面されるわけである。〕
如浄禅師の全身に宏智古仏があり、
宏智古仏の全身に如浄禅師があることを知った。
(はかりしりぬ、天童の屋裏に古仏あり、古仏の屋裏に天童あることを。)
圜悟克勤禅師は言う、
「曹谿山の真の古仏を稽首トンシュ(頭で足をいただき掌タナゴコロを上に向けて礼拝)します」。
(圜悟エンゴ禅師いはく、「稽首曹谿真古仏《稽首ケイシュす、曹谿真の古仏》」。
〔自分が真の古仏(たった今にいる人の中の第一人者)であるから、真の古仏である六祖大師(曹谿)を礼拝することができるのだ。〕
知るべきである、釈迦牟尼仏より嫡々相承テキテキソウジョウして、
三十三代目の曹谿山の大師は古仏であると頓首するのである。
(しるべし、釈迦牟尼仏より第三十三世はこれ古仏なりと稽首すべきなり。)
圜悟禅師に古仏のたった今の荘厳な光明があるから、
古仏と対面できたのであり、このような礼拝があるのである。
(圜悟禅師に古仏の荘厳ショウゴン光明あるゆゑに、古仏と相見しきたるに、恁麼インモの礼拝ライハイあり。)
だから、曹谿の一貫して変わらないたった今の荘厳な光明を修行の材料とし、
古仏にはこのような肝心要のとらえどころ(たった今)があることを知るべきである。
(しかあればすなはち、曹谿の頭正尾正ズシンビシンを草料して、古仏はかくのごとくの巴鼻あることをしるべきなり。)
この肝心要のとらえどころ(たった今)がある者は、
誰でも古仏(たった今にいる人の中の第一人者)なのである。
(この巴鼻あるは、この古仏なり。)
疎山匡仁ソザンキョウニン禅師(洞山トウザン大師の弟子)は言う、
「大庾嶺ダイユレイの頂イタダキに古仏が在り、
古仏が放つ光明がここまで照らしている」と。
(疎山ソザンいはく、大庾嶺頭有古仏、放光射到此間《大庾嶺頭ダイユレイトウに古仏有り、放光此間シカンに射到す》。)
知るべきである、疎山和尚がすでに古仏と対面したことを。
(しるべし、疎山すでに古仏と相見すといふことを。)
古仏をほかに尋ねてはならない。古仏のいるところが大庾嶺の頂である。
(ほかに参尋すべからず。古仏の有処ウショは、大庾嶺頭なり。)
〔すなわち大庾嶺の頂にいる羅山道閑和尚が古仏なのである。〕
古仏でないものは、古仏が出る所を知ることはできない。
古仏が在るところ(たった今)を知るものは、
古仏(たった今にいる人の中の第一人者)なのである。
(古仏にあらざる自己は古仏の出処をしるべからず。古仏の在処をしるは古仏なるべし。)
〔羅山和尚のいる所を知ることができたのは、疎山和尚が古仏であるからだ。〕
『第九古仏心』第二段その1b〔今は亡き宏智古仏(たった今に在る人の中の第一人者)と対面した〕
合掌
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