〔『正法眼蔵』原文〕
向来コウライの四十位の仏祖、ともにこれ古仏なりといへども、心あり身あり、光明あり国土あり、過去久矣キュウイあり、未曾ミゾウ過去あり。
たとひ未曾過去なりとも、たとひ過去久矣なりとも、
おなじくこれ古仏の功徳なるべし。
古仏の道ドウを参学するは、古仏の道を証するなり。
代々の古仏なり。
いはゆる古仏は、新古の古に一斉イッセイなりといへども、
さらに古今を超出せり、古今に正直ショウジキなり。
〔『正法眼蔵』私訳〕
先に上げた四十人の仏祖は、いずれもみな古仏(仏の中の仏)であるといっても、
心もあり身もあり、光明もあり国土もあり、過ぎ去って久しいということもあり、
未だかつて過ぎ去っていない(現在している)ということもあるのである。
(向来の四十位の仏祖、ともにこれ古仏なりといへども、心あり身あり、光明あり国土あり、
過去久矣あり、未曾過去あり。)
たとえ未だかつて過ぎ去っていなくても、たとえ過ぎ去って久しくても、
同じくみな古仏の功徳なのである。
(たとひ未曾過去なりとも、たとひ過去久矣なりとも、おなじくこれ古仏の功徳なるべし。)
古仏の道を修行するとは、
古仏(仏の中の仏)の道(在りよう)をこの身心で明らかにすることである。
(古仏の道を参学するは、古仏の道を証するなり。)
代々の仏祖は一人一人みな古仏なのである。
(代々の古仏なり。)
いわゆる古仏は、新古の古と同じであっても、
さらに古今を超越しており、古今に直通しているのである。
(いはゆる古仏は、新古の古に一斉なりといへども、さらに古今を超出せり、古今に正直なり。)
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