〔聞書私訳〕
/教家で「不可得」と談ずる様相はまちまちである。
罪障は「不可得」であるから、罪を犯す主は誰もいないと言い、
本性は「不可得」で無始無終である。
この罪障は自己より来たものではなく、他より来たものでないから「不可得」である、などと言う。
ただ、この義に根拠がないことは、我々凡夫の考えが及ばないからであり、我々が一切に暗く、自他を知らず、罪障がどのように来るのかはっきりしないからである。
本性は「不可得」と言わず、心体(心身)は「不可得」と言わない、「不可得」の体(身)であるからである。
/三世を不住(留まらない)と言うのも、吾我(自我)に対して言うだけである。過去は既に過ぎ、現在は留まらず、未来はまだ来ていないから、三世は「不可得」と言うが、今はこれらの義ではないので、「不可得裏に過去・現在・未来の窟籠をわん来す」と言うのである。
「不可得裏にわん来す」と言う時、「心」はそのまま「不可得」の道理に落ち着くのである。
/「しかれども、自家の窟籠をもちゐきたれり」とは、
「自家」とは仏家であり、「不可得」を「自家の窟籠」と使うのである。
それなら、前に言った、「不可得裏」の「窟籠」も同じであるけれども、「しかれども」と言うと、違って感じられる。
ただ「自家」とは「心不可得なり」と言う時に、三世の「窟籠を剜来」するだけでなく、そのまま「心」を「不可得」と言うのである。
/「而今の思量分別」とは、この「思量分別」は仏家(仏道修行者)の「思量分別」である。「心不可得」と言うから、「心」を別にして「不可得」と言うのではなく、ただそのまま「心」を「不可得」と使うのである。
/「使得十二時の渾身、これ心不可得なり」と言う、
「仏家」の「十二時」は、無意味な「十二時の渾身」ではない。「心不可得」であるからである。
合掌
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