〔抄私訳〕
これは、玄砂の言葉で、「尽十方世界是一顆明珠」と示された言葉を、僧が玄砂に、「尽十方世界是一顆明珠、学人如何が会得せん」とお尋ねした時に、「師曰『尽十方世界是一顆明珠、用会作麼』」というのは、この言葉を用いるのは何の為かと、みごとにこう普通の問答の言葉のように間違えて心得るのであるが、これは邪見である。
これは、「用会作麼」の道理は、「一顆明珠」(一つの光り輝く宝珠)の道理を重ねてあげられるのである。「一顆明珠」の道理が「用会作麼」なのである。
「師、来日」とは、次の日のことである。一般には、弟子が、師に昨日の分からないことはお尋ねすべきところであるが、玄砂が僧に問うて、「尽十方世界是一顆明珠、汝作麼生会」と言い、僧は「尽十方世界是一顆明珠、用会作麼」と言ったので、これは、ただ、師が前に言った同じ言葉を、口真似したように思われた。
そこで、「師曰、『汝向黒山鬼窟裏作活計』」とあるので、汝が理解する所を述べて、ただ口真似した時に、「汝は黒山鬼窟の内に向かって活計をなす」とは、嫌われた言葉かと多分理解するであろうが、そうではない。
「尽十方世界是一顆明珠」のほかに、「黒山鬼窟」といって、また別に良くないと嫌われる所があろうか。ただ「尽十方世界」を「黒山鬼窟」と言うのである。ただ常に「一顆明珠」の道理を述べていると心得るべきである。
《頭注:この僧の口真似した言葉は、「如何なるか仏」と問う時、「如何なるか仏」と答え、「清浄本然ならんに如何が山河大地を生ぜん」と問うた返答に、「清浄本然ならんに如何が山河大地を生ぜん」と、同じ言葉で言ったのと同じ意である。》
〔聞書私訳〕
/「尽十方世界是一顆明珠」の言葉は、つまるところどんなことか。ただ、法性と談じ、真如と聞き、実相と説けば、弊害があることもある。有念無念の考えも、世間の商量(様々な条件などを比べて考えること)に及ぶのである。
「一顆明珠」の言葉には、虚実の言葉を離れ、正見(ありのままに正しく見ること)の義が表れるのである。たとえば、「一顆明珠」の理を究めないことがあっても、邪見に落ちることはなく、
「尽十方世界是一顆明珠」の時節があるのである。
合掌
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