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正7-1-1『第七 一顆明珠』第一段①正法眼蔵原文・私訳〔浮世の危うさを悟り、仏道の貴さを知った〕

 正法眼蔵第七  一顆明珠イッカミョウジュ

(あらゆる世界が常に円満で欠けることがない様子は、あたかも一個の光り輝く宝珠である)


第一段〔浮世の危うさを悟り、仏道の貴さを知った


〔『正法眼蔵』原文〕

 裟婆シャバ世界大宋国、福州玄砂山院ゲンシャザンイン宗一シュウイツ大師ダイシ

法諱ホウギ師備シビ、俗姓者シャなり。


在家のそのかみ釣魚チョウギョを愛し、

舟を南台江ナンダイコウにうかべて、もろもろのつり人ビトにならひけり。


不釣自上フチョウジジョウの金鱗キンリンを不待フタイにもありけん。


唐の咸通カンツウのはじめ、たちまちに出塵シュツジンをねがふ。


舟をすてゝ山にいる。


そのとし三十歳になりけり。


浮世フセイのあやふきをさとり、仏道の高貴をしりぬ。


つひに雪峰山セッポウザンにのぼりて、

真覚大師シンカクダイシに参じて、昼夜に辦道ベンドウす。



〔『正法眼蔵』私訳〕

裟婆世界、大宋国、福州玄砂山の宗一大師は、

法名は師備、俗姓は謝である。

(裟婆世界大宋国、福州玄砂山院宗一大師、法諱師備、俗姓者謝なり。)


在家のその昔、魚釣をなりわいとし、

舟を寒村僻地の南台江に浮かべて、多くの釣人たちとなれ親しんでいた。

(在家のそのかみ釣魚を愛し、舟を南台江にうかべて、もろもろのつり人にならひけり。)


釣らないのに自ら上がる金色の鱗の魚すらも待たない境界であったのであろう。

(不釣自上の金鱗を不待にもありけん。)

〔これは玄砂の法界に対する相手がなく、

独立独歩で行く非思量の境界を言うのである。〕


唐の咸通五年(864年)に、

にわかに出家を思い立ち、舟を捨て山に入った。

(唐の咸通のはじめ、たちまちに出塵をねがふ。舟をすてゝ山にいる。)


その時すでに三十歳であった。

(そのとし三十歳になりけり。)


浮世の危うさを悟り、仏道の貴さを知ったのである。

(浮世のあやうきをさとり、仏道の高貴をしりぬ。)


ついに雪峰山にのぼり、真覚大師(雪峰義存)の弟子になり、

昼夜をわかたず仏道修行に精進した。

(つひに雪峰山にのぼりて、真覚大師に参じて、昼夜に辦道す。)




                          合掌


7-1-2聞書抄私訳

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