〔『聞書』私訳〕
/「また滅と滅と相待するにあらず、相対するにあらず」とは、「滅と滅」というからには、〔滅と滅を〕「相待」「相対」と嫌うべきではないと思われるが、世間で人と人が「相見」するので、「滅」と「滅」の「相待」「相対」もここでは言うまいというのである。
/「滅も初中後滅なり、相逢不拈出、挙意便知有《相逢ふては拈出せず、意を挙すれば便ち有ることを知る》なり」とは、「相逢」といっても自他が「相逢」するのではない。「不拈出」というのも何物を「拈出せず」というのか分からないから、「針を容れず」に当たる。
「挙意便知有(こころをあげれば、すなはちある事をしる)」と言う、意を挙げればそのまま有る事を知るのである。《傍注:挙意をそのまま知有とするのである》この「有」は有無の有ではないから、「私に車馬を通ず」に当たる。「相逢ふては拈出せず」という言葉がそのまま「意を挙すれば便ち有ることを知る」なのである。この「知」は、慮知の知ではない。上に「相逢ふては拈出せず」という意味でこのように言うのである。
/「従来の滅処に忽然として起法すとも、滅の起にはあらず、法の起なり」と言い、今また、「従来の起処に忽然として滅すとも、起の滅にあらず、法の滅なり」と言う。このように「起」「滅」をあげて、「たとひ滅の是即にもあれ、たとひ起の是即にもあれ、但以海印三昧、名為衆法なり。是即の修証はなきにあらず、只此不染汚、名為海印三昧なり」とある。
これは、「起」の所でも「滅」lし、「滅」の所でも「起」すとも言うべきであるというのである。「起」「滅」はともに法の言葉であるから、ただ「起」の時を「是即」と説き、「滅」の時を「是即」と言おうというのではない。
「起」の時も「滅」と使い、「滅」の時も「起」と言うのである。前では「起」「滅」を加えず、今はまた「起」の所に「滅」とも使い、「滅」の所に「起」とも使うのである。「是即」は「滅」の所の「起」である。「法の」「起」「滅」は「不染汚」の「起」「滅」である。
/「但以海印三昧、名為衆法」と言う、
人が修する三昧ではなく、「海印三昧」である。「海印三昧」を名付けて「衆法」とする。この「衆法」を「此身」とするから、「海印三昧」と「衆法」と「此身」は同じである。「不染汚」をもって「海印三昧」とするのである。
〔『抄』私訳〕
「また滅と滅と相待するにあらず、相対するにあらず。滅も初中後滅なり、相逢不拈出、挙意便知有《相逢ふては拈出せず、意を挙すれば便ち有ることを知る》なり」とある。
「滅」は「滅」で「相対」するのではないと言うのである。「滅」と「滅」が「相対」するという義もあるが、ここでは、「滅」は「滅」で通り「相待するにあらず」とあるのである。「滅」は「初中後滅」である。「相逢ふては拈出せず」とは、相逢っても誰かが「拈出」するということがない。「意を挙すれば便ち有ることを知る」とは、普通は意でものを知るが、これは意を智と取るのである。これは、「起」「滅」が相待しない義を表すためである。
「従来の起処に忽然として滅すとも、起の滅にあらず、法の滅なり。法の滅なるがゆゑに不相対待なり」とある。
これは、前に、「従来の滅処に忽然として起法すとも、滅の起にはあらず、法の起なり」と言ったように、「起」に「滅」を取り替えただけである。ただ同じ意味である。
「たとひ滅の是即にもあれ、たとひ起の是即にもあれ、但以海印三昧、名為衆法なり。是即の修証はなきにあらず、只此不染汚、名為海印三昧なり」とある。
これは、経文は「是即名為海印三昧」とあるのを、ここでは「但以海印三昧、名為衆法」とある。上では、「衆法合成此身」以下、いろいろの法をあげて「是即名為、海印三昧」とある。今は「海印三昧、名為衆法」と言い、引っくり返しているが、ただ同じ意味である。つまり、「衆法合成此身」以下をもって「海印三昧」とし、今は「海印三昧」をもって「衆法合成此身」と言うのであり、ただ同じ意味である。
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