〔『聞書』私訳〕
/この「官には針を容れず、私に車馬を通す」の言葉は、世俗から出た言葉である。具体的に言えば、公オオヤケの事には針をも容れないほど厳しく、私事には車馬をも通すほど寛容であるから、私事が勝っている言葉と思われるところを、今引かれるのは、「起は初中後起」であるから、他を交えない証拠に「官には針を容れず」を使い、「滅」も「初中後滅」で、他を交えない証拠に、「初中後」を通じさせて「私に車馬を通ず」と言ったのである。つまり、「容」「通」の二字を取るためである。
/「従来の滅処に忽然として起法す」とは、「三界唯一心」と言うほどであれば、「起」も三界、滅も三界であるから、「滅」の所を指して「起」とも使うのである。「三界は一心」であるからである。
〔『抄』私訳〕
「おほよそ滅は仏祖の功徳なり。いま不相対と道取あり、不相待と道取あるは、しるべし、起は初中後起なり。官不容針、私通車馬《官には針を容れず、私に車馬を通ず》なり。滅を初中後に相待するにあらず、相対するにあらず」とある。
これは、「起」の時は「初中後起なり」、「滅」の時は「初中後滅なり」。「官には針を容れず、私に車馬を通ず」とあるので、「私」を先として不忠であるように思われる。
ただ、この文を今引き出された考えは、「起」「滅」の二つにこの言葉を当てはめるためである。「官」は「官」で通り、「私」は「私」で一筋と収める意味であり、別に子細はない。これというのも、「起」の独立(一方究尽)の姿を表すためであり、「滅」の独立を示すためである。
「従来の滅処に忽然として起法すとも、滅の起にはあらず、法の起なり。法の起なるゆゑに不対待相なり」とある。
これは、「従来の滅処に忽然として起法すとも、滅の起」であると言ってはいけないという意味合いであるから、「法の起なり」とある。「法の起なる」道理が「不対待相」であると言われるのである。
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