〔『抄』私訳〕
「此法滅時、不言我滅。まさしく不言我滅のときは、これ此法滅時なり。滅は法の滅なり。滅なりといへども法なるべし。法なるゆゑに客塵にあらず、客塵にあらざるゆゑに不染汚なり」とある。
「此法滅時」は「不言我滅」と言われるのである。「此法滅時」の外に他のものがないから、「此法滅時」と「不言我滅」と別でないから、まさしく「不言我滅」の時は「此法滅時」である、と言われるのである。
この「滅」は我々が使う生滅の滅ではないから「滅」と言うのである。生滅の滅ではない所が、「滅なりといへども法なるべし」と言われるのである。「法なるゆゑに客塵にあらざる」ことは言うまでもない。「客塵にあらざるゆゑに不染汚なり」ということを、疑うことはできない。
「たゞこの不染汚、すなはち諸仏諸祖なり。汝もかくのごとしといふ、たれか汝にあらざらん。前念後念あるはみな汝なるべし。吾もかくのごとしといふ、たれか吾にあらざらん。前念後念はみな吾なるがゆゑに」とある。
「この不染汚、すなはち諸仏諸祖なり。汝もかくのごとし」と言うのは、六祖が南嶽に印可されたお言葉を引用したのである。「汝もかくのごとし」と言う時は、「汝」に洩れるものは一つもないから、「たれか汝にあらざらん。前念後念あるはみな汝なるべし」と言うのである。
「汝」という言葉を「前念後念」に寄せて言っても、一般に(教学のように)身の中に心意識を置いて念慮知覚を言う表現ではない。「前念後念」も「汝」もただ一つであると理解すべきである。「吾」と言う時も、ただ「汝」ほどの道理であり、少しも違わないのである。
合掌
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