〔『聞書』私訳〕
/「忽然火起」と言う《割注:『法華経』の『譬喩品』にこの文がある》、
相対することなく早く起こることである。これは法華の姿がこのように言われるのである。「この起の相待にあらざるを、火起と道取するなり」と言っているので、「忽然火起」の宗意は明らかである。
/「起滅不停フチョウの時トキ如何イカン」とは、「不停」は無尽の義である。「生也全機現」(生も全分のはたらきの現れである)の意である。世間の道理ではそのまま「起滅」の法を「不停」であるものと心得る。「起」は生、「滅」は死と心得るからである。今(宗意)はそうではない。
「心不可得」を心得るにも、心を三界と究め尽くしたからには、可得とか不可得とかと論じるまでもない。ただ「心は不可得」と心得、三世不可得はただ一心不可得であり、一心は過去であり、一心は現在であり、一心は未来であり、三世に対して過ぎるとか停まらぬとか、言うことができないように、我々が起こり、我々が滅するという時に停まらないのである。一心可停である。不言を、不待不言に取り替えるだけである。「起」の上でも「不停」、また「滅」の上でも「不停」である、
/「起滅不停時を仏祖の命脈として断続せしむ」とは、これは何を断じ何を続けさせようと言うのではない。「この起滅不停時」の道理を「仏祖の命脈として」取捨せよと言うようなことである。「起」「滅」共に法であるから、「起」の時に「滅」とも使えるのである。初中後(ずっと)「滅」であるからである。
〔『抄』私訳〕
「古仏いはく、忽然火起。この起の相待にあらざるを、火起と道取するなり」とある。
この「忽然火起」は『法華経』の『譬喩品ヒユボン』の文である。三車を設けて火宅の門から出そうと方便を設けられたのは、いかにも相待ソウダイ(二つのものが互いに関係して存在する)の法であると言うのである。
しかし、一仏乗の法の上での相待ではない。「忽然」と言えば、突然ものがふと出てきたような言葉に思われるが、「この起の相待にあらざるを、火起と道取するなり」とあれば、不審に及ばない。つまりは「衆法合成此身」の上の「起」に他ならないのである。
「古仏いはく、起滅不停時如何《起滅不停フチョウの時トキ如何イカン》。しかあれば、起滅は我々起、我々滅なるに不停なり。この不停の道取、かれに一任して弁肯すべし」とある。
「起滅不停時如何」とは、「起滅」の姿が「不停時」なのである。その理由は、「起」の姿はどこが初めか終わりかわからず、無辺際の「起」であるからである。「滅」もまたこれと同じである。この道理が「不停時」であり、諸法はみな「不停時」の道理なので、この道理が「如何」と例のように言われるのである。「起滅は我々起、我々滅」であるのを「不停時」と言う、文の通りである。「この不停の道取、かれに一任して弁肯すべし」とは、「起滅」を「かれ」と指すのである。
「この起滅不停時を仏祖の命脈として断続せしむ。起滅不停時は是誰起滅《是れ誰が起滅ぞ》なり」とある。
「この起滅不停時を仏祖の命脈として断続せしむ」とあり、文の通りである。「この起滅不停時」の道理が、「是れ誰が起滅ぞ」と言われるのである。その理由は、「起滅」の「不停時」を、誰かがいて「起滅」とか「不停時」とか見るところを、「起滅」を「起滅」が見、「不停時」を「不停時」が見るのであるから「是誰起滅」と言われるからである。
「是誰起滅は、応以此身得度者なり、即現此身なり、而為説法なり。過去心不可得なり、汝得吾髄なり、汝得吾骨なり、是誰起滅なるゆゑに」とある。
また、「是誰起滅」は、「応以此身得度者」とも、「即現此身」とも、「而為説法」とも、「過去心不可得」とも言われるのである。その理由は、観音が三十三身に変化ヘンゲする所では、仏身を以て得度すべき者には仏身を現して法を説き、或いは「辟ビャク支仏(独覚)身を以て得度すべき者には辟支仏身を現して為に法を説くとあるが、ここでは「応以此身得度者」とあり、誰の為にどのような身を現すと言わず、また、「即現此身」とだけ言って誰の為に現すということがないからである。
「而為説法」というのも、教化する所を置かない。
これがすなわち「是誰起滅」の道理なのである。
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