〔『聞書』私訳〕
/「起時は此法なり、十二時にあらず。此法は起時なり、三界の競起にあらず」と言う、「十二時にあらず」と「三界の競起にあらず」ということを同じこととして、「三界」のことを言うかと思われるけれども、ここでは「起時」という時間の方に重きを措いて論じる時に、「十二時にあらず」と「三界の競起にあらず」とを、「あらず」と同じように理解するというのではないから、このように言うのである。
「十二時」は「此法起時」の時ではなく、また「三界競起」とも言うことはできない。「三界の競起にあらず」と言うのは、成劫・滅劫などという世間の「起」を「三界競起」と言う時に、今は(宗意からは)「あらず」と言うのである。
/「起の我起なる、但以衆法なり。声色と見聞するのみにあらず」と言う、
「衆法」が「声色」とも「衆法」とも言われるのである。
〔『抄』私訳〕
「すでにこれ時なる起なり。皮肉骨髄を独露せしめずといふことなし」とある。
「起」と「時」は同じものであるので、至って親しいから「皮肉骨髄を独露せしむ」と言うのである。「汝、吾が皮肉骨髄を得たり」の意味合いである。
「起すなはち合成の起なるがゆゑに、起の此身なる、起の我起なる、但以衆法なり。声色と見聞するのみにあらず、我起なる衆法なり、不言なる我起なり」とある。
初めは「合成此身」と言い、今(宗意)は「起」の上に「衆法合成」の言葉を付けて、「但以衆法合成起」と言うのである。「この身」が辺際がないように、「起」もまた「海印三昧」(三昧の海にあらゆるものが映る諸仏の境地)の「起」であるから辺際がないのである。また、向上の上では声色と見聞する意味もあるので、前のように言うのである。
「不言は不道にはあらず、道得は言得にあらざるがゆゑに、起時は此法なり、十二時にあらず。此法は起時なり、三界の競起キンキにあらず」とある。
「不言」と言っても言葉がないのではなく、「道得」と言っても言い得たというのではないのである。また、「起時」とは、「十二時」の時ではなく、「此法」であり、「此法」とは「起時」である。この「起時」は、三界の内でものが競い起こることではないという意味合いである。
また、「此法」を「起時」と言えば、世間の「十二時」ではない。「起時」を「此法」と言う時は、この「三界の競起にあらず」とは、「三界唯心」の「三界」なのである。ただ、世間の「十二時」の時を嫌っているように心得れば、なお取捨の法の意味合いが消えないのである。
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