〔『正法眼蔵』原文〕
すでにこれ時なる起なり。皮肉骨髄を独露せしめずといふことなし。
起すなはち合成の起なるがゆゑに、起の「此身」なる、起の「我起」なる、
「但以衆法」なり。
声色と見聞するのみにあらず、「我起」なる「衆法」なり、「不言」なる「我起」なり。
「不言」は不道にはあらず、「道得」は言得にあらざるがゆゑに、「起時」は「此法」なり、十二時にあらず。
「此法」は「起時」なり、三界の競起キンキにあらず。
〔『正法眼蔵』私訳〕
すでに時と起は同じものなので、皮肉骨髄を独り露わにしないということはないのである。
(すでにこれ時なる起なり。皮肉骨髄を独露せしめずといふことなし。)
起は森羅万象が集まって成っている起であるから、起が「尽十方界真実人体のこの身」であり、起の「我れ起こる」であり、「ただ森羅万象が集まってこの身が成っている」のである。
(起すなはち合成の起なるがゆゑに、起の「此身」なる、起の「我起」なる、「但以衆法」なり。)
声を聞き色を見るだけでなく、「我れ起こる」ことである「森羅万象」であるから、「不言」である「我れ起こる」なのである。
(声色と見聞するのみにあらず、「我起」なる「衆法」なり、「不言」なる「我起」なり。)
「不言」と言っても言葉がないのではなく、「道得」と言っても言い得たというのではないから、「起こる時」は「この法」であり、二十四時の中の時ではない。
(「不言」は不道にはあらず、「道得」は言得にあらざるがゆゑに、「起時」は「此法」なり、十二時にあらず。)
「この法」は「起こる時」であり(今の様子が起こるだけであり)、三界が競い起こることではないのである。
(「此法」は「起時」なり、三界の競起にあらず。)
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