〔『聞書』私訳〕
/「抛塼引玉ホウセンインギョク(塼を投げて玉を引く)」とは、
「磨塼作鏡マセンサキョウ(塼を磨いて鏡と作す)」というほどのことである。
「抛塼(塼を投げる)」と言うからといって賤しむものではなく、
「引玉(玉を引く)」と言うからといって貴ぶものではない。
坐禅が身心脱落するというのは、身心脱落すればそれがそのまま坐禅の体であるということである。「抛塼」はそのまま「引玉」の意味合いである。
/「攙奪すべからず」とは、対すべきことがあるのを「無対」であると心得ているのを、即ちこれを「攙奪」と言うのである。「攙奪すべからず」とは、「無対」であるのを「無対」と肯定するからである。
〔『抄』私訳〕
「『大寂無対ダイジャクムタイ』なる、いたづらに蹉過サカすべからず。
抛塼引玉ホウセンインギョクあり、回頭換面カイトウカンメンあり。
この無対さらに攙奪ザンダツすべからず」とある。
南嶽の「人の車を駕するが如し」という言葉の後に、「大寂、無対」とある。この「無対」は、この上なくこの南嶽の言葉に答えられた「無対」と心得るべきである。
ただ「いたづらに」言うべきことを言わず口を閉ざしている「無対」ではないから、「いたづらに蹉過すべからず」と言われるのである。
「抛塼引玉ホウセンインギョク(塼を投げて玉を引く)あり」とは、市で塼を抛げて玉を引いた故事のことである.。「回頭換面」とは、頭を回メグらして面に換えるということで、同じことを言っているのである。
つまるところ、「坐禅」と「作仏」、「打車」と「打牛」の関係は、
「回頭換面」というほどの意味である。
「攙奪」とは、市で商人が気に入らない物を無理に買うことを言い、
これは道理に合わないことであり、今の「無対」は道理に合わないことではないという意である。
合掌
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