〔『抄』私訳〕
「水牯牛スイコギュウを打牛するか、鉄牛を打牛するか、泥牛を打牛するか。鞭打ベンダなるべきか、尽界打なるべきか、尽心打なるべきか、打迸髄タヒンズイなるべきか、拳頭打ケントウダなるべきか。拳打拳あるべし、牛打牛あるべし」とある。
この「水牯牛」「鉄牛」「泥牛」等の言葉は、すべて古い言葉を引用して書かれたのである。つまるところ、「水牯牛」「鉄牛」「泥牛」などと言えば、何事かと思われるが、これは、「水牯牛」も「鉄牛」も「泥牛」もすべて仏だと言うのである。
「水牯牛打」「鉄牛打」「泥牛打」と言うべきところを、みな「牛」の語を下に付けてあるのは、少々わけがある。そのわけは、単に「打」の語だけを付けて言えば、やはり人がいて打つように能所(主客)があってのことと思われるが、「牛」の字をそれぞれに付けて言えば、能所を離れ人が牛を打つという考えから離れることができるからである。
「鞭打なるべきか」とある、これは世の常の言葉と思われるが、この「車即是」を打つ鞭とはどのようなものか。ただ、法界(世界)を法界が打つというほどの道理である。
すなわち、「尽界」を打ち、「尽心」を打ち《割註:これは三界唯心の心の事である》、「打迸髄」《割註:これは髄をもって打つ意である》であり、「拳頭打」であると言うのである。普通の「打牛」の意味合いと違うことは明らかである。この落着する道理を決められるので、「拳打挙」「牛打牛」と言うのは、この道理である。
合掌
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