〔『正法眼蔵』私訳〕
大寂いはく、「磨塼豈得鏡耶キトクジョウキョウヤ《磨塼豈アに鏡を成すことを得んや》」。
まことに磨塼の鉄漢なる、他の力量をからざれども、磨塼は成鏡にあらず、成鏡たとひ聻 ニイなりとも、すみやかなるべし。
南嶽いはく、「坐禅豈得作仏耶キトクサブツヤ《坐禅豈に作仏を得んや》」。
あきらかにしりぬ、坐禅の作仏をまつにあらざる道理あり、
作仏の坐禅にかかはれざる宗旨かくれず。
〔『正法眼蔵』私訳〕
馬祖が言った、「塼を磨いて、どうして鏡に成ることができるのですか」。
(大寂いはく、「磨塼豈得成鏡耶《磨塼豈に鏡を成すことを得んや》」。)
〔底意は、「塼を磨いて、鏡に成るのですね」である。〕
真に磨塼に徹している人は、他の人の力を借りないけれども、
塼を磨くことは鏡と成ることではなく、鏡と成ると言っても無理に成すのではなくそのまま鏡なのである。
(まことに磨塼の鉄漢なる、他の力量をからざれども、磨塼は成鏡にあらず、
成鏡たとひ漸なりとも、すみやかなるべし。)
南嶽が言った、「坐禅してどうして仏に作ナることができるのか」。
(南嶽いはく、坐禅豈得作仏耶《坐禅豈に作仏を得んや》。)
明らかに知った、坐禅が仏になることを待つのではない道理があり、仏になることが坐禅に左右されないおおもとのありようがいつもあるということを。
(あきらかにしりぬ、坐禅の作仏をまつにあらざる道理あり、
作仏の坐禅にかかはれざる宗旨かくれず。)
〔『正法眼蔵』評釈〕
手を打つと「パチッ!」。音がしたから聞こえたのではないのです。瞬時に「パチッ!」(作仏)があるのです。何かしないと、本物にならないと思っている人がいるかもしれないけれども、自分の様子に親しくいる(磨塼)と、みなこういうふうにして最初から出来上がっている(作仏)のです。
坐禅も何かを探しに行くわけではないのです。何かを取り除いて初めてその様子になることは一切ありません。そういう行なんです、それが坐禅をしている時の在り様でもあるのです。
合掌
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